イベントの企画
朝、利用者が来所した時が1番忙しい。
転ばないように車から降りて、事業所内に誘導して、上着を脱いでもらい、ハンガーに掛けて、手洗いうがいをしてもらい、席についてもらう。
人によっては順序が逆だったり、寒いからしばらく上着は脱がないということもある。
「おっ、さっちゃんじゃないか」
「おはようございます、Eさん」
さっちゃんとはEさんが私につけた愛称だ。Eさんは私が入職してすぐから何かと気にかけてくれ、可愛がってくれている、デイサービスの男性利用者だ。
デイケアの利用者への挨拶を終えた私は、急いでデイサービスの部屋へも足を運び、利用者に挨拶をして回っていた。
挨拶はハヤくんがいた時から習慣化していたが、両方の事業所で名札を見なくても全員の名前を呼べるようになったのは最近だ。
「Eさん、昨夜はよく眠れましたか?」
「うーん、眠れたとは思うんだけどな、朝はいつも飯を食いながら寝ちゃうんだよ」
「今日もご飯の途中で寝ちゃいましたか」
ああ、と返事しながら、Eさんが頭をぽりぽりと掻いた。私は大きなEさんの横に膝をついて、見上げるように声をかける。
「なんだよ、この前話した事、覚えていてくれたのか」
「気にしてますから。Eさん、目が赤いですね、痒くはないですか?」
「痛くも痒くもないけど、やっぱり赤いよね」
「少しですよ、すぐ良くなるなら大丈夫ですけど、酷かったり続くなら眼科に行った方がいいと思います」
「これだから、さっちゃんは」
向かいのFさんが、Eさんをからかうように言った。
「Eさんは寂しがりだから、さっちゃんが甘えさせてくれてるんだろ?」
「そんなことないですよ、Eさんが私を甘やかしてくれているんですから」
Fさんが口笛を吹く。
EさんとFさんは、いつも同じ曜日に利用していて、仲が良い。よく喋る2人の席は決まって向かい合わせだった。
「ハヤくんがいた時は、優秀な相談員さんだと思ったけど、さっちゃんもなかなか優秀だよな」
「あら、ありがとうございます」
ありがたいことに褒めてもらえた。私は笑顔で応じた。
Eさんは一度、半日型の別の事業所へ行こうと利用回数を減らしたことがある。しかしうまく移行できずに回数を戻した。もう一つの事業所の方は、週に一回のペースで利用を継続している。
時間の短いデイサービスでは、早く帰ると昼寝してしまい、どうも生活が整わないようだ。それで一日型の、この事業所を利用したいと希望してくれた。
他にも、半日型だとスタッフとここまで密にやり取りができないことに寂しさを感じていたようだ。
「さかきさんも、だいぶ慣れてきましたね」
私に声をかけてきたのは、EさんとFさんとのやりとりを後ろで見ていたハヤくんだった。
「ハヤさんのおかげですよ、手取り足取り教えていただいて」
ハヤくんは一重の目を細め、ひょいっといつものお辞儀で返してきた。私も、同様に頭を下げた。
ハヤくんは以前、長くこの事業所に勤めていたベテランで、私が入職してから文字通り手取り足取り相談員の仕事を教えてくれた、年下の先輩だ。
しかし、ハヤくんは、私が入職して2ヶ月足らずで他界してしまった。
それからというもの、この事業所のことをほとんど分かっていない私は、ハヤくんから相談業務を引き継ぐことに自信がなく戸惑ってばかりだったが、他の職種の仲間たちが、今までハヤくんがやってきた仕事の一部を分担してくれることになり、私がやる業務はだいぶ少なくなった。
さらに、翌月には新人相談員も入った。指導が済んで仕事もやりやすくなったので、私の勤続期間も入職してからハヤくんとお別れするまでの期間を超えた。仲間のおかげでなんとかここまで勤めることが出来ている。
ハヤくんは、今はこの事業所の中で穏やかな時間を過ごすことが出来ているようだ。以前のように、利用者の家やケアマネ事業所に電話を掛けたり、時間に追われながら他職種の要望に答えてファクスの送信文を考えたりすることはない。それは今では私の仕事になっているからだ。
「さかきさん、今日のお昼、時間ある?」
「はい、大丈夫ですよ」
「今日は天気がいいから、デイサービスで外気浴をしたいので、手を借りてもいい?」
「良いですね、いつもの時間で良いですか?」
「うん、よろしく」
デイサービスの副リーダーが、私をイベントに誘ってくれた。早速新人相談員と、この情報を共有した。
新人はデイケア、私はデイサービスの担当になっている。だから、デイサービスのイベントには顔を出すようにしている。
本部の事務長からは、なるべくまめであれと教えられた。特に、男性である新人相談員は、「男女差別をここでするつもりはないけれど、男なのにまめなんだね、と言われるくらいまめに連絡を取りなさい」と言われている。
毎朝利用者に挨拶をして周り、体調を確認し、休みの利用者の報告と、久しぶりに来所された利用者の様子をケアマネに知らせたりしていると、意外に時間がかかる。だから急いで用事を済ませ、デイサービスの部屋へ行った。
行くと主任が、渋い顔をしていた。
「さかきさん、今回の企画書なんだけどね」
今日のイベントは主任が言い出したことだが、今日の当日リーダーのカンザキさんが渋っているようだという。
いつも、いろんなイベントをやりたいと言ってくれている職員なのだが、主任はカンザキさんをあまりよく思っていない。
「困るよなぁ、イベントをやる時には必ず企画書を書いてくれって言っているのに、彼女、まだ書いていないんだわ」
「理由は聞いてみましたか?」
「いや」
時計の針は11時をさしていた。11時半からは食事前のテーブル拭き、手指消毒と口腔体操があり、すぐ昼食の配膳があるから、企画書を書くには今がギリギリの時間だ。
やりたいことは色々あっても、イベントを実施するにはタイムテーブルや担当の振り分けなどをしなければならない。新型コロナウイルス感染症が蔓延しだしてからというもの、まるでイベントを実施してこなかったから、イベントが本来どのような流れで実施されるかを忘れてしまった職員が多い。
だから、主任と私で話し合って、イベントを思いつきでやって責任の所在が不明確になることがないよう、外気浴のようなイベントでも企画書を提出するよう介護士たちに依頼していたが、カンザキさんは私たちの意図を無視して、企画書そのものを省略しようとし出している。主任はそう言いたいようだ。
私は、大きなため息をついたハヤくんの方を見た。
「カンザキさんのことだから、利用者がいる時間は利用者の対応が第一なのに、企画書を書く暇はないと考えているのかもしれません」
ハヤくんが眉根を寄せて私に言った。ハヤくんの反応からして、今に始まった事ではないのだろう。
「それか、言えば誰かがやってくれると思って思いつきでイベントを口に出すなよという、主任への反発か」
「どっちもあり得ますね」
ハヤくんが胃の辺りを押さえ出した。困った時に出る、ハヤくんの仕草だ。
「言い出しっぺが何もしないのかよって思ってるのかもしれないです」
「今日の言い出しっぺは主任ですよね」
「ええ、だからこそ、反発が強いのかもしれませんね」
外気浴の企画書は、当日のリーダーが書くことに決まっていた。今日の当日リーダーはカンザキさん、企画書を書かなければイベントを始めようがない。
他の職員も、手伝いに来た私の姿を見て、イベントをやるのかやらないのか、と戸惑い始めている。
カンザキさんはその様子を知ってか知らずか、別の事務作業を続けている。
「主任、ちょっと…」
私が主任を少し離れたところに呼び出し、話した。
「前に約束した通り、企画書が出来ていなければ、イベントは成り立ちません」
「そうなんだよ、なのに彼女、全然書こうともしないから困っているんだ」
「じゃあ、イベントはできませんよね」
「そうなんだよなぁ」
デイサービスでは、利用者の話を聞いて、こんなことをしたい、あんなことをしたい、という思いつきのイベントも起こり得る、と私は思う。
だから、デイサービスの職員には、企画書をササッと書けるようになってほしいと考えている。
熱いニーズには熱いうちに応えたい。
もちろん、人手や天気、利用者の体調も関わってくるから、必ずしもすぐに応えられるとは限らない。
だけど、可能な限り応える。そのためには、いろいろな力が必要だ。
利用者のニーズを把握する力、こうすれば実施可能であると、上司を納得させるに足る提案を出す力、他の部署に手助けを頼む交渉力、仲間を動かすリーダーシップも。
なし崩しに企画書なしでイベントをやりたいという思いを黙認しないためにも、企画書が書けるまで、イベントを始めないことだ。
何が正解かはわからない。だけど、企画書がなければイベントを始められないことを知ってほしい。
カンザキさんも利用者のためにいろいろな企画をやっていきたいと話していた。だから、企画倒れは嫌なのではないか。カンザキさんの良心に賭けることにした。
11時15分。
カンザキさんが私の方にやってきた。主任には、意図的に別の部屋に行ってもらっている。
「さかきさん、今日は外気浴があるんですよね。私、企画書を書く担当になっているんですけど、書いたことがないんです。イベントの企画書って、どうやって書いたらいいんですか?」
「はい、それはですね…」
私は早速、企画書の用紙と、前回の外気浴の企画書を示して、書き方を伝えた。
「今日は利用者さんがたくさんいらっしゃっているから、対応でバタバタするんですよね、それでこんな時間になっちゃって…すみません」
「今日は利用者さんが多い曜日ですからね。私もデイサービス担当なんだから、もう少しこちらに来られればよかったです。そうすればカンザキさんもバタバタせずに書けたのに。ごめんなさい」
前回の成功した時の企画書を真似て、思ったよりも早く企画書が書けたことに、カンザキさんはホッとしたようだ。企画書は私が確認して、すぐ主任の承認を受けたのち、利用者に対し、午後から外気浴をしましょうと部署のリーダーからアナウンスされた。
昼食の配膳を待っている間、カンザキさんが私の方へそっと近寄り、囁く。
「なんかね、主任から、今日は利用者さんを外に出してあげよう、外気浴をやろうって朝から言われていたんだけど、そんなに急に言われても、対応できないじゃないですか。すぐに利用者さんもいらっしゃることですし、手が離せません」
「そうですね」
近々、外気浴の企画書は簡素化していきたいと、再度主任に相談しようと思う。
こうやれば外気浴は安全に行える、という実績も、こうやると危険だ、という実績も積み重ねて、今後は一つのルーティンとして業務に組み込む。そうすれば、安全に配慮しながら業務の一環として外気浴ができる。
もちろん、外出するレクリエーションは、思いつきではないしっかりとした企画書が必要だが…
主任とも、カンザキさんからこんな話があったと、早速共有した。
「なんだよさっちゃん、朝と夕方しか来ないんじゃなかったのかい?」
「お昼のEさんにも会いたくなっちゃったんですよ」
私を見つけたEさんは、しかめっ面をしながらも嬉しそうだ。朝と夕方しか来ないと言われてしまった以上、しばらくは昼にも顔を出さなければならないようだ。
私にも新たな課題ができた。
ハヤくんはひと足先に表の空気を吸っている。屋内の利用者も屋外の利用者も見渡せる、1番見守りしやすい位置だ。
表に出した椅子をEさんに使ってもらい、私はハヤくんの隣に立った。
「いい天気ですね。これから寒くなりますから、これが今年最後の外気浴かもしれないですね」
「そうですね」
ハヤくんの言葉に、私もハヤくんを見上げて、笑顔で頷いた。
「今回の企画は、反省点だらけですね」
「表に出せないから、裏反省会ですね」
うーん、と私は苦笑して、肯定のお辞儀で返した。
勢揃いすると、主任がミカンの箱の上に上がり、クイズを出し始めた。
利用者の笑い声が空に響いた。