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「批判的」読書感想文(知念実希人『機械仕掛けの太陽』を読んで)

はじめに

 数ヶ月前から知念氏のツイートに違和感を覚えていた私は、実際に彼の考えていることを知るために―要は「敵を知る」ために―彼がよく宣伝している『機械仕掛けの太陽』という彼の著作を立ち読みしてみた。少し読むだけでツッコミどころが幾つかあったので、いっそのこと購入して全部読み、それらを上手いことまとめて文章にしてみよう!と思い立った。その結果がこの「【批判的】読書感想文」になる。誹謗中傷にならぬよう、言葉には細心の注意を払っている。とはいえ、知念氏はベストセラー作家様なんだから、その辺の貧乏学生がこじんまりと書いただけの読書感想文を誹謗中傷扱いするわけがないと信じている。

知念氏への違和感のきっかけ

 私が知念氏のことを知ったのは数年前の、とある電車広告だったと思う。『崩れる脳を抱きしめて』とかいう小説タイトルに目を惹かれたのだった。「崩れる脳」なんてフレーズを使われると、『ドグラ・マグラ』並みの良い意味で滅茶苦茶な作品を期待してしまうではないか。ところがあらすじを読んで「なんかアリガチなヤツだな」と興味を失い、実際に読むことはなかった。作者の名前は印象的だったから覚えた(私は生来、他人の名前や顔を覚えるのが得意なのだ)。

 彼の名を再び見たのは2022年の10月―私が東大モラル研究会なる珍奇なサークルを立ち上げ、活動方針として反自粛運動を標榜しようかと悩んでいた頃―である。その時点で既に強固な「コロナ降参派=コロナ対策放棄派」であった私だったが、反自粛運動を実際に行うことには躊躇いがあった。感染症に関して自分より遥かに知識を備えた人同士で議論し合っているわけで、そこに入り込む隙などないだろう…とか思っていて、Twitterで彼らのバトルを見るには見るのだが、決して首は突っ込まなかった。そんな中で、自粛派(この場合の「自粛派」というのは、単に感染対策を緩めたり撤廃したりしようとしない連中のことだと見なしていい)の中でもかなり強い影響力を持っていたのが知念氏だった。彼が批判的あるいは素人的なリプライに対しても割とあっさりと返答していることに気づいた私は、「俺でも構ってもらえるかもしれない」とふんで、11月の某日、以下のようなリプライをしたのである。

 私のこのリプライの意味を軽く説明しよう。当時(今もだが)の私はコロナ降参派(コロナ様に打ち勝とうなんておこがましい、コロナ様に降参しよう、ついでに心身を疲弊させる感染対策も放棄してしまおうという立場)であった。ここで重要なのは、勝利不可能なのはコロナであって、「コロナ禍」には勝てるということである。前提として、コロナ禍には2つの意味がある。①COVID-19それ自体の被害②感染対策によって生じる経済的・精神的被害という2つ。①に勝つことは無理だけれども(ワクチンを打ちたきゃ打てばいいと思う)、②に勝つことは、感染対策の象徴たるマスクを皆が外しまくることによって可能だと思っていたのだ。それ以外にコロナ禍に勝つ方法があれば教えてほしいもんだと思って、知念氏に訊いてみたのだ。無垢で可愛らしい質問だ。そして返ってきたのがこれ。

 …一見、正しそうに見える。ワクチンによって「あなたは安心ですよ」というお墨付きを与え、皆が打ったタイミングでマスクを外していく。正しそうだが…これ、その実践段階においては極めて難がある。①そもそもワクチンを打ちたくないヤツに打たせることなど、非独裁国家の日本で可能なのか?②全世代の7割がワクチンを打つまで何年かかるんだ?②について補足しよう。知念氏のこのツイート、要は「全世代の7割が打つまではお前ら我慢しとけよ」というメッセージが裏側に込められている。全世代の7割が打つまで…せいぜい1ヶ月2ヶ月なら我慢してやってもいいけど、10年20年かかるのなら流石に待ってられないじゃないか!その計画には無理があるじゃないか!だからこう訊いたわけだ。

 知念氏がここで「教えてあげましょう」とか言って、様々なデータや計算を交えて「およそ●●年かかりますよ、それまで我慢しててくださいね」と優しく諭してくれれば、こんな読書感想文など書くハメにならなかったのだ。だが、あろうことか知念氏は、これを無視した。私はここで知念氏に対し決定的とも言える違和感を抱いた。

なぜ私は本を買ったか

 この「無視」以降も、私は彼のツイートを(おそらくファン以上に)頻繁に覗き、思うところがあれば引用リツイート等で反論していた。彼への違和感は高まるばかりだ。そして、2022年の年末頃だったと思う、あることに気づいた。

 …この人は、自分の考えを「一から十まで」説明してくれない。

 いやもちろん、場合によって上手いこと説明しきっていることもある。しかしそうではないこともやっぱりある。さっきの「無視」の件もそうだし、最近だと「黙食緩和騒動」(千葉県知事の熊谷氏が、子供への過度な感染対策の代表例である黙食を緩和する旨を発表したことに対し、一部の医療従事者を中心としてバッシングがなされた騒動)などは記憶に新しい。この件について、予想通りではあったが、彼は熊谷氏をバッシングする側に回った。彼の主張というのは要は「医療逼迫が激しく、感染者数も酷いこの時期に緩和する、そのエビデンスはあるのか?ないなら緩和などするなよ」というモノだった。しかし、である。

 そもそも黙食なんていうのは、コロナ禍という非常事態のドサクサで突如始まった、「なんとなく効果のありそうな感染対策」である。何事においてもそうだが、伝統性を否定して新しいモノを持ち込むのなら、更にそれを子供たちに強制するならば、それを持ち込み強制するにふさわしい極めて強力な理由が必要なのである。これは政治的な保守・革新の問題とも似ている。保守派は「なんとなく」でも許されるのだが、革新派というのは旧来の伝統を破壊するわけだから、それに見合うだけの理論が必要だ。黙食。子供が食事中に友達と話せない、机も離される、そしてそれを教師が監視している…。恐ろしい光景だし、こんな衝撃的なシステムを肯定するならばさぞかし強い強い理論体系が準備されているに違いないと期待していたのだが、結局知念氏はそれを示さなかった。医療逼迫とか、感染者数とか、重症とか、症状消失とか、ワードを匂わせることはするのだが、それが具体的にどう絡み合い、2022年12月に黙食を緩和してはならないという結論になるのかを説明してくれなかった。仮に説明することができたならば、ほぼ間違いなく熊谷氏を説得できただろうに。なぜやらなかったのか、不思議である。

 繰り返し述べるが、「黙食は可哀想だから緩和させてあげよう」という、いわば感情的な主張は、黙食をしないことが伝統的であるという理由によって、認められる。そして、この主張を打ち砕くにふさわしいエビデンスー黙食を導入することの極めて有効なメリットーを明確に示すことができれば、それでようやく「黙食の心理被害と予防効果のバランスを見て考えよう」という議論に進める。決して、エビデンスがあるから即、黙食へ移行とはなってはならない。

 そういう意味で熊谷氏の提案は至極自然なモノであり、それをバッシングしたいなら、エビデンスを「一から十まで」、要は誰にもツッコミを入れられないほどの分量でもって示す必要があるのだ。

 ワクチンの件にも触れておきたい。知念氏はワクチン推進派の筆頭とも言える存在だ。たびたびワクチンの有効性を示すデータを呟いたりリツイートしたりしている。結局それは先に述べていた「全世代の7割」的な目標を果たすためだろうと思う。私はワクチン接種済みだし、過激な反ワクというわけでもないし、そのデータのいちいちにツッコミを入れる気はしない。というか、医学論文などまともに読んだことのない私は黙る方が得だと思っている。

 ただ、医学的権威のある学者・医者のうち、少なからざる数の人がワクチンに異議を唱えているのは、なぜだろうと思っている。もちろん肩書きだけで判断してはいけないことは分かっている。とはいえ、ワクチン懐疑派がそれなりの数だけいるのだから、ワクチン推進派の知念氏は、彼らの提示する個別的な質問すべてに答え得るような、包括的な「ワクチン安全理論体系」みたいなものを作ることを志向しなければならないと思う。要は、「これ読めば誰でも安心してワクチンを打てる」と言えるような分厚い理論体系。それが作られない限りは、ワクチン接種率は伸び悩むに決まっている。だから私は当初知念氏に期待していたのだ。これだけワクチンを推すなら、それに見合うだけの完璧な理論体系があるに違いない、知念氏はそれをもとにして、あらゆる懐疑派の質問に答えてくれるに違いない。

 ところが知念氏はそういった「理論体系」みたいなモノを教えてくれなかった。ぶつ切りの、細かいデータを沢山示してはくれるのだが、それでは「体系的」とは言えない。で、たまに一部のワクチン危険論者の荒唐無稽な主張(素人でもおかしいと思うようなモノ)を引用リツイートして、揚げ足を取るようにして笑うのだ。それは一部のエセ科学への注意喚起には貢献しているが、ワクチン懐疑派の背中を後押しすることには貢献していないのではなかろうか。

 ワクチンについても、散りばめられたデータこそあれど、「一から十まで」説明してはくれなかったのだ。

 だから私は、知念氏の考えていることをしっかり学ぼうと思って、彼がよく宣伝していた『機械仕掛けの太陽』を買ったのだった。もちろんフィクションの語りを作者の思想と混同してはならない。しかしこの作品は少し色が異なる。帯には「〝戦場〟と化した医療現場の2年半のリアル」とあった。要は、フィクションはフィクションでも、リアリティをかなり重視したシロモノだということ。知念氏も、こう宣伝している。

 「コロナ禍の過酷な医療現場を描いた小説にして感動のドキュメンタリー」…ふつう自分の書いた小説に「感動の」なんて修飾語は付けないよなぁと苦笑いしつつ、やはりこの作品はノンフィクション的に、要は作者のモノの見方・価値観が染み込んだモノとして読んでも問題なかろうと判断した。(仮にそうではないとしたら、ごめんなさい。あらかじめ詫びておきます。)

 興奮を湛えて本屋に行き、立ち読みしてみたのだった。そしてこの作品に対し違和感をなんとなく覚えて、「この作品を【コロナ禍の代表作】的な感じで持て囃すのは違うんじゃないか?」と疑念を抱いた。「全部読んでツッコめる所は全部ツッコもう」とも思った。そしていわば「批判的に読む」ために、身銭を切って購入したのだった。余談だが、私はブックオフを利用せず近所の書店で定価で購入した。このスポーツマンシップにも似た正々堂々たる態度を、我ながら誇らしく思う。褒めてほしいもんだ。

実際に読み終えての簡単な感想

 筆致が丁寧すぎて詩性を感じなかったこと、会話文が説明口調的すぎることが気になった。しかし、今回の感想文では文体よりもストーリーを見ていかなければならないので、文体云々の話は脇に置いておく。ストーリーについて言えば、あまりにも「医療従事者目線」すぎやしないか?と。「一部の医療従事者にとってのコロナ禍」は描けているのかもしれないが、コロナ禍全体を包括し得るモノではないだろう…と。コロナ禍というのは全人類を覆った災害なのだし。色々とツッコミを入れていきたい。(文章化の都合で、やはり憶測の行き過ぎた批判はしてはならないような気もするので、数としては絞らせてもらいます)。

大まかな構成とあらすじ

 この作品は時系列通りに進んでいく。
プロローグ…2019年秋
第1章 Wild strain(野生株)…2020年1月~
第2章 α(アルファ)…2020年7月~
第3章 δ(デルタ)…2021年4月~
第4章 ο(オミクロン)…2021年11月~
エピローグ…2022年4月~

 非常に親切な構成になっている。主人公は3人いて、彼らが変わりばんこに主役となって物語を展開させてゆく。

主人公1…大学病院の勤務医で、シングルマザーの椎名梓
主人公2…同じ病院に勤務する20代の女性看護師・硲(はざまる)瑠璃子
主人公3…引退間近の70代の町医者・長峰邦昭

 本の帯に書かれてある紹介をそのまま書いてみた。私がどうしても解せないのは、「主人公をわざわざ3人用意したのに、なぜ全員医療従事者なの…?」ということ。その辺は後々触れることになると思うが、この時点で「コロナ禍」の全貌を書くことについて、暗雲漂っているわけである。

 この作品のストーリーは、「主人公たる3人の医療従事者が、コロナ治療という苦難の前線に立たされ、プライベートでの問題や社会的非難に晒されながらも、医療従事者としてのプライドと技術を頼りにどうにかしてその苦境を乗り越えていく」というモノである。それさえ分かっておくと私の感想文は読めると思う。では、本題に移りたい。

「批判的」読書感想文(あるいは違和感の列挙)

違和感その1…「ウイルスvs人類」の戦争という構図の刷り込み

  作中に登場する医療従事者たちは、このコロナ禍を「ウイルスvs人類」の戦争だと捉えているフシがある。そしてそれを何度も何度も、セリフや語りを通して読者に認識として刷り込ませようとしている。

ウイルスとの戦争が始まったと(p.80)
人類とウイルスとの戦争が始まった(p.117)
世界中がウイルスという敵を前に、力を合わせている(p.170)
このウイルスとの戦争が終わったとき、私は元に戻れるのだろうか(p.231)
人類とウイルスの全面戦争の真っ最中に(p.313)
すでにウイルスとの戦争に勝利したのではないか(p.362)
人類はウイルスとの戦争に敗れたのかもしれない(p.461) 

『機械仕掛けの太陽』

 これでもか、という感じである。しかし私はこの構図を強調することに違和感アリアリである。私はウイルスと戦う気持ちなどかなり昔に捨ててしまっている。その時から、私にとっての敵はウイルスではなく、いつまでもウイルスと戦わせようとする、つまり感染対策を強いてくる人々だった。

 このツイートの通りである。志村けんが亡くなったり世界中どこでもロックダウンなされていたりしたような2020年の3-5月ならまだ「よっしゃ、ウイルスに勝ってみせるぜ」みたいな気持ちがあったのだが、6月ごろから盛り上がったBLM運動や翌年のオリンピック騒ぎを見て「やっぱりコロナは終息しないんだろうし、もう勝てません、降参します」と思ったものだ。そうなれば当然、敵意はウイルスではなく感染対策を強いてくる連中に向かうわけだ。ウイルスに降参した以上は感染対策など精神を擦り減らすだけの無駄であって、撤廃すべきなのだ。で、私と同意見の人が「無視できるほど少数」だったか?と言えばそんなことはない。夜の渋谷の街を見よ。ワールドカップ終わりの喧噪を見よ。誰も彼もが賑やかさに溶け込んで以前の生活に戻っているではないか。昼間は皆堅苦しい顔をして黙っているくせに、そこから解放されるやいなや感染対策など無視して盛り上がっている。私はその光景を見、あるいは場に入ってみて、「やっぱり【コロナ降参派】も存在するもんなんだなあ」と内心思ったものだった。

 私のようにウイルスとの戦争を「諦めた」連中はそれなりの数いたわけで、彼らにとっては「感染対策推進派(自粛派)vs感染対策撤廃派(反自粛派)」という明確な構図が描かれているわけだ。そして今や、この構図の方がメジャーだという説もあるくらいだ。

 それなのに、である。この作品においてはその構図についての強い言及がない。別に全面的に賛同しろとは言わない。コロナ禍において拡大した1つの対立構図として言及してもいいはずではないか。知念氏はおそらくこれに気づいていないのではないか?あるいは、気づいていても知らないフリをしているんじゃないか?という疑念が強まるばかりである。

 遺体をケアした瑠璃子が、その遺体が感染対策のために家族に会うことなく火葬されることについて思いを馳せるシーンがある。

この女性の遺骨も、そのようにして届けられるのだろうか。この悪質なウイルスはどこまで人間の尊厳を奪うのだろうか?(p.141)

『機械仕掛けの太陽』

 私などは、「尊厳」とやらを奪ったのは別にウイルスだとは思わない立場である。遺体を直接火葬場に運ばせるのはウイルスではなく感染対策のガイドラインを定めた者、そしてそれに従っている者たちであろう。感染対策の加害性を無視してウイルスに責任転嫁してはならない。その後の描写を見ても、瑠璃子の怒りの矛先はウイルスに留まっている。

 さて、一応は「反自粛派」も登場する。しかし主人公の医療従事者たちは、大衆の一部が遊びまわる理由を深く考えることもなく、とりあえず呆れ、非難する。

なぜ、これだけ歓楽街での感染に対して注意喚起がされているにもかかわらず、そこに行ってしまうのだろう。新型コロナウイルスが怖くないのだろうか。(p.160)
例年よりはかなり少ないものの、忘年会を行っている者たちもいた。なぜ、そんな危険な行動をとれるのだろう。いま感染して肺炎を起こしても、入院できる保証などないのに。(p.238)
なんて馬鹿なことを。(p.292)(瑠璃子の元婚約者が実家に帰ったことを聞いてのセリフ)

『機械仕掛けの太陽』

 「リスクを負ってでもいいから遊びたいんだ、コロナになったって構いやしないんだ」という感情は、多数派ではないかもしれぬが、ごく自然なモノである。カネが貰えるならまだしも、無償のボランティアみたいなモノなのだから、コロナを恐れない人々が感染対策に協力しないのは筋が通っている。なぜ作中のキャラは、それに理解を示そうとしないのか。結局、反自粛派に理解を示したシーンは特に見受けられなかった。流石に描かれている価値観が一面的すぎやしないだろうか?

 瑠璃子の恋人で彰という商社マンが登場する。彼はコロナ禍初期、緊急事態宣言の発令により実家への挨拶を延期することになり、こう言った。

「移動するななんて、病院に命令する権限はないだろ。そんなの、訴えたら勝てるぞ」(p.102)

『機械仕掛けの太陽』

 まったくその通りだ。彰は立派な反自粛派戦士と言える。私は読んでいて、ひどく期待したのだ。ここから、「例外状態における国家の生権力の強化についてどう思うか?」的な議論を、瑠璃子と彰という2人に展開させてくれるに違いないと期待したのだ。ところが、である。あろうことか瑠璃子はこう言い放った。

法律の問題じゃなくて、安全の問題なの。(p.102)

『機械仕掛けの太陽』

 意味が分からない。このあと、瑠璃子はいかに現状が危険であるかを語るのだが、そんな説明で納得させられるわけがない。突如として実家の挨拶を封じることが法的に問題ありと指摘されたのだから、法的問題として語るべきなのであり、しれっと安全の問題にすり替えていることを恐ろしく感じる。後日、彰はホームパーティーに参加したことを契機に瑠璃子から別居を告げられた。彼は結局、自分がコロナに罹ったり母親がそれで亡くなったりといった経験を通じて実に簡単に「自粛派」に転向してしまった。彼の内面を描き出せば、「反自粛派の心理」を内包できたのに。もったいないと思うばかりだ。

 反自粛派への共感シーンとして、強いて挙げるとすれば、ワクチンの有効性を知った梓と姉小路というキャラが抱きしめ合うシーンがあり、その次にこうある。

感染対策として正しい行動でないことは分かっていた。けれど、そうせずにはいられなかった。(p.214)

『機械仕掛けの太陽』

 「感染対策を破ってでも感情を爆発させたい時はある」という意味を持たせたシーンではあるが、ここから感染対策を撤廃する方向への深い思索には入ってゆかないのが残念だ。

 「遊びたいという個人的感情を、科学的合理性のもとに抑圧し感染対策を強いてよいのか?強いてよいとして、その範囲はどれほどか?」というのは、コロナ禍においては徹底して語られるべき中心的とも言ってよい問題なのだが、作品はそれを無視しているように感じられた。

 そもそも、知念氏はかつて以下のような衝撃のツイートをしたことで有名である。

 公衆衛生の敵だから、要は、安全を確保したいからという理由で、放水という暴力を肯定してしまうような人である。別に、暴力が悪いとは言わない。個人的にはちょっと殴っただけですぐ警察だなんだと話がもつれるような社会は嫌いである。しかし、知念氏は私みたいな貧乏学生と違い、医者であり、フォロワーを10万単位で抱えるインフルエンサーである。発言内容に対してはより慎重であるべきだ。このツイートを見る限り、あるいは、この作品を読む限り、知念氏は「公衆衛生のためならどれだけ強い権力を行使してもいい」と思っているような気がして仕方がないのだ。その結論が導かれるまでの過程を、精緻に組み立てて説明してほしいものだ。

違和感その2…「ワクチン懐疑論者」への対処

 この作品では、全面的にワクチンが称揚・推進される。

これまで新しい感染症が出ても、人類はただじっとそれが過ぎ去るのを待つことしかできなかった。けれど、今回は、はじめて科学がウイルスに勝つことができるかもしれない。(p.137)
この世界中を恐怖に陥れているウイルスに、完全に勝利できるかもしれない。その予感に、体温が上がっていく。(p.216)
ウイルスを打ち負かすことができる武器がある。なのに、守るべき人々にそれを届けられない。(p.367)

『機械仕掛けの太陽』

 「コロナ対応の仕事で疲弊しドタバタしていたところに、英雄的にワクチンが登場し、医療従事者はそれを一種の希望・励みとする。途中で過激なワクチン危険論者に邪魔されるけれど、めげずに諦めずに仕事を全うしました」というストーリーの流れがある。気がかりなのは、「ワクチン懐疑派」として登場した春子というキャラクターの設定だ。

 ワクチン問題については3つの派閥があると思っている。①安全論者②危険論者③懐疑論者。いまの日本はどのような割合になっているだろうか。

日本国内のワクチン接種状況 オミクロン株対応ワクチンの接種率|NHK

2023/1/20現在、4回目接種したのはおよそ5600万人だ。全人口の半分未満ということになる。5回目接種とは違い、ここから先の大きな伸びが期待できないと考え、安全論者の割合はせいぜい5割と仮定してみよう。では、残りの5割が全員危険論者か?と言えばそんなことはない。ワクチンが行き渡ってもコロナ禍が終わらなかった事実に呆れている、ついでに言えば「よく考えたら流石にワクチン導入まで早すぎやしないか?」と疑っている人々は大勢いるわけであり、彼らは懐疑論者=慎重な人々としてカウントすることができる。1回目2回目は打ったくせに4回目を打っていない5000万程度の人間のうちのかなり大部分が、「安全論者から懐疑論者へ」転向したと私は推測する。私も2回目接種で止まっているうちの1人だ。

 となれば、懐疑論者の勢力というのを決して無視してはならないのである。仮に、この作品の中で懐疑論者として登場する春子というキャラを上手いことワクチン安全論者に転向させるような展開を作ることが出来たならば、この作品は強い価値を持った作品になったに違いない。しかし、この作品はその転向のさせ方があまりにも雑だった。

 春子とは主人公の梓の母親である。ワクチンを打ちに接種会場に来たはいいものの、不安になり、娘で医師である梓に電話をしたのだ。不安を吐露するのだが、梓の必死の説得により結局はワクチンを打つことを決めたというのが話の筋だ。しかし私は、この「説得」があまりにも雑だと感じた。梓は春子の言い分を聞いたうえで、それらを全てデマと断言する。そしてさまざまな疑問に全て上手いこと答え、母親を安心させるのだが…たった一本の電話で、あっさりと安全論者に転向するなんて、そんなことあるだろうか?あまりにもご都合主義的ではなかろうか。私ならばもっと大量の資料データと精緻な理論体系がなければ納得できないし、世の中の懐疑論者の多くもそうだと思う。一本の電話で意見を翻す春子というキャラを、懐疑論者の代表として見なすことはとてもできない。

 特に気になったシーンはここだ。春子のセリフが『』、梓のセリフが「」で括ってある。

『でも、なんか大学の名誉教授とか、ウイルスとか遺伝子の専門の先生も、ワクチンは打たない方が良いって言っているんだよ』
梓は固く目を閉じる。気を抜けば叫び出してしまいそうだった。
「その人たちは専門家なんかじゃない。COVIDの患者を診たことがない。あれがどんなに恐ろしい病気で、どれだけ苦しんで、どれだけ悲惨な最期を迎えるかまったく分かっていない。(中略)」(p.313,314)

『機械仕掛けの太陽』

 まず、「ウイルスとか遺伝子の専門の先生」を一括りにしているのが謎である。経歴、専門分野、所属、功績…学者と言ってもその中身はさまざまであり、彼らを、「ワクチンを勧めていない」というだけの理由で一括りにしてはならないはずだ。

 次に気になるのが、「その人たちは専門家なんかじゃない」というセリフ。COVID患者を診たことがなければ専門家を名乗ってはいけないという理屈が分からない。専門家かどうかはそれについての知識量で決まるとして…たしかに、勤務医は学者に比べると患者の容態について詳しく知っているのかもしれない。しかし、それ以外の面ではどうか?研究に注いでいる時間を勘案した時、どうしても勤務医が学者よりもコロナ全般について詳しいとは思えぬのである。勤務医が労働している間に、学者は研究に打ち込めるのだから。結局、この主人公というのは「ワクチンは安全で推進されるべき」という結論ありきで行動しているがために、学者名や主張内容を探ることもせずに即座に「専門家なんかじゃない」とか断定してしまっているのだろう。それはいかがなものかと思う。

(補足)ここで、知念氏に対しての疑問を1つ挙げておきたい。知念氏はいつコロナについて勉強されているのだろうか。小説の執筆にも熱心で(最近もホラーを書いたとか言っていた)、医師としての勤務にも熱心で(ふだんあれだけ「必死で」というワードを使っているからには、週5日どころか休日も返上でほぼ毎日勤務してらっしゃるのだろうと勝手に想像している。尊敬に値する)、Twitterの更新頻度も高い(whotwiとかいうサイトで調べてみると、2023/1/20現在、1日の平均ツイート(Re含む)数は50を超えているようだ)。執筆、医師業務、Twitterとこれだけでもかなり忙しいのに、いつの間に、有名学者たちと渡り合えるだけの勉強をなさっているのか不思議である…。

 「ワクチン危険論者」にも触れておくと、この作品の中では危険論者がよく登場する。彼らは凶暴で非科学的であるとして、熱心に描写されていた。「その熱量を懐疑論者のキャラクターを描く時にも使ってほしかった」と思ったのは私だけだろうか。

違和感その3…医療従事者への同情の強さ

 コロナ禍は全世界を覆ったわけで、別に病院の中だけで起きたわけではない。ならば、やはり医療従事者以外にも焦点を当ててほしかった。特に、コロナ禍の影響を割と大きく受けた飲食店経営者、ミュージシャン、学生、スポーツ選手。彼らの姿を描くことで「過剰な感染対策の是非」という問題を作品の中に内包できるのに、この作品ではそう言った身分の人が半ば無視されている。瑠璃子の恋人の彰という「反自粛派」の素質があったキャラを描き切れなかったのはつくづく残念である。(違和感その1を参照のこと)

 感染対策に嫌気がさしている人など現実にも沢山いたわけで、彼らの気持ちに寄り添わずに、医者が医者の立場からあれこれ文句を垂れる展開は正直言って辛かった。

 象徴的なのが、この独白だ。

なんで、私たちばっかり、こんなに苦しまないといけないの。(p.447)

『機械仕掛けの太陽』

 忙しさに潰れそうになった梓の、嘆きにも似た独白である。しかし…別に苦しいのは医者だけではないではないか。ライブをちょっとやるだけで非難されたあげく「不要不急」という差別的な罵倒を受けたミュージシャン・演劇人を想像せよ。オリンピックに照準を合わせていたのに延期になり、ため息をついたアスリートを想像せよ。3年間、給食時間に誰とも会話できなかった小学生を想像せよ。彼らの辛苦を想像すれば、別に医者だけが特別とは思わない。それに、コロナに対応することが業務に含まれる医療従事者と違い、その他の職種の人々はほぼ無償で感染対策を強いられていたことを忘れてはならない。2020年の4月に10万円がポンと支給されたあと、何が配られたか?

 医者の書いた小説をわざわざ読んで言うのもアレだが、正直、「医療従事者に同情しすぎでは?」と思った。少なくとも私は、尾身茂の、

 ”中でも感染症対策のために人生に一度しかない青春時代を十分に楽しめなかった若い世代の方々には特に感謝の気持ちを伝えたいと思います。”

https://corona.go.jp/together/thankyouall/

 という屈辱的なメッセージを忘れない限りは、医療関係者を過度に持て囃す風潮には断固反対である。尾身茂のメッセージに関しては、感謝の気持ちなんか要らない、カネをくれというのが本音である。

 補足して言っておくと、知念氏の「非・医療従事者への軽視」的な傾向を私が感じ取ってしまうのは、このツイートがたびたび脳裏によぎるからというのも理由の1つである。

 豪雨に見舞われたソウルの光景―沈みゆく自動車にバス、稼働しない信号機、そして車の上でただ携帯らしきモノを弄ることしかできず困惑し果てた市民―。これを見て、医者が「映画のワンシーンみたい(笑)」と呟いてよいのか?別に言葉狩りをしたいわけではない。しかし、ふだんあれだけ人命人命と叫び、安全が大事だのなんだのと言っているようなお医者様が、大災害の光景を半ば茶化してしまうことに憤りを覚えてしまうのもまた事実なのである。このツイートを改めて読んでも、知念氏に自らの身体を離れた範囲の事柄についての想像力が欠如していると見なすことは不自然だとは思わない。

 私は今回のコロナ禍においては、医学を盾にしたある種暴力的な感染対策が行われたと見る立場である。ありとあらゆる国民を「患者予備軍」と見なし、なんでもかんでも制限してしまった感染対策の暴力性というのは、もういい加減、徹底的に反省されなければならないと思っている。

最後に

 『機械仕掛けの太陽』を読んだところで、以前から抱いていた知念氏への違和感が解消されなかった。それどころか、ますます彼に対する批判的態度を強めてしまう結果となった。

 つまり、日ごろの彼のツイートを見て感じていた、
①公衆衛生のための強権行使を支持する傾向
②ワクチン懐疑論者に向き合わず荒唐無稽な一部の危険論者ばかりを非難する傾向
③医療従事者にばかり同情する傾向

 の3つが、作品内にも現れ出ていたということであり、私は少々残念であった。

 上のツイートでも分かる通り、知念氏は「コロナ禍を終わらせる一助になれば幸い」と述べている。知念氏にとってのコロナ禍の終わりとは、「全世代の7割がワクチンを打ちじわじわと正常化を行った結果」訪れるモノだと仮定してみると、この物語により反自粛派への怒り・ワクチン礼賛精神・医療従事者への同情心を惹起され「(自粛派的に)模範的に振る舞い始める」者はたしかにいるのだろうし、その願いは少しは叶ったのだろうと思う。しかし、私のような頑固な反自粛派の抱える疑念を見事に解消し、「じゃあワクチンを打ちに行こう、マスクも着けて飲みも控えるようにしよう」と思わせるに足るほどの作品ではなかった。

 それは結局、先に挙げた違和感が解消されていなかったからであり、その意味で、この作品が「コロナ禍もの」の代表作にはなってほしくない気分だ。医療従事者目線の、という枕詞がつけば別だけれども。

 まとめると、この小説は「一部の医療従事者から見たコロナ禍物語であり、コロナ禍の全貌を捉えてはおらず、また、その性質上ウイルス・反自粛派・ワクチン危険論者への敵意を煽り医療従事者の安易な英雄化をもたらす恐れがある」と言えそうだ。

 この「読書感想文」が知念氏に届いたところで相手してもらえるとは思わないが、できれば読んでいただき、そのアンサーを貰いたいものだ。

 この辺で終わりにしたい。長々とお付き合いいただきありがとうございました。

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