活動の指針
東大モラル研究会は、本年度9月に発足され、11月半ばより活動を始めた。
発足の動機は、現代日本で使用される「モラル」という言葉への不信感・嫌悪である。モラルは一般的に「社会生活の秩序を守るために構成員が守るべきもの」云々と説明される。では、社会秩序とは何か。仮に、社会秩序を自由と安全という2つの要素で規定してみよう。
自由がなければ行動を起こせないが、ありとあらゆる自由を認めてしまうと盗み殺し放火なんでもありの世の中になってしまうから、法や条例あるいは共有された暗黙のルールなどで、安全を守ろうとする。逆に、安全を守るためなら!とありとあらゆる自由を規制してしまえば、閉塞感が社会に蔓延し、活気が失われる。つまり、自由が過剰ならば安全が脅かされ、安全が過剰ならば自由が脅かされる。自由と安全という2つの要素が綱引きのごとく牽制し合う関係のうえに、社会秩序が成り立っていると言うことができよう。
我々は、現代日本においては社会秩序が「安全」の方向に偏りすぎているのではないか?と見る立場である。
それはコロナ禍において更に加速化したと言ってよい。「安全」のためならマスクを着けさせよう、授業をオンラインにしてみよう、修学旅行は中止してみよう、並んで座るところにはどんどんアクリル板を差し込んでみよう…。そうして、数々の犠牲が払われ自由が奪われたわけである。例として過剰なコロナ対策を挙げたが、この流れはコロナ禍以前から存在する。電車に変なヤツがいるだけでSNSに晒したり、なんだか怪しいというだけで職務質問をして時間を浪費させたりすることも、過剰たる「安全」化の例と言えよう。
そして、このような社会の過剰な安全化に反抗する人々が、どのような言葉で非難されるか?多くの場合、「モラルがない」と言われる。日本人としての美徳がないとか、マナー違反とかいうフレーズを使う人もいる。ここである疑問が浮かぶ。彼らにとってモラルとは「流れに逆らわず従うこと」「自分を抑えて他人のために動くこと」という意味しか持たないのではないか?
しかし、社会秩序には自由が―それをもたらす活力が―不可欠だとするならば、モラルにはこれらとは別の意味を持たせる必要があろう。つまり「活力を蝕むものには抵抗せよ」というモラル。敢えてこのモラルを叫ぶことで、加速する社会の安全化を食い止める必要がある。その思いに駆り立てられて、この会を発足した。
活動の方向は大きく2種類想定している。①さまざまな文化芸術/政治/思想を学ぶこと②現行にて支配的なモラルへの抵抗を実践すること。
①については、「モラルを語るにふさわしい教養のようなもの」を身につけることを目的とする。世間的な非難を浴びている/浴びた作品や事件に触れたり、過去沸き起こった/いま沸いている政治運動について学んだり、その下支えとなった思想を学んだりする予定である。
②については、いまのところはコロナ禍における反自粛運動のことを指す。この会の発足動機に関連しているし、実践を通じて得るモノもあるだろうと思っている。ただ、こちらについては参加を強制しない。時間場所ともにイレギュラーな活動になるだろうし、それにいちいち対応させるのは酷だからだ。気が向いたら参加してほしい。
以上が、東大モラル研究会の活動の指針である。