果てぬ欲望

見慣れたはずの部屋は、炎に包まれていた。覚えている限りでは元気だったはずの家族は、火の中で動かないでいた。
「俺は……何故このような事に」
まるで記憶がない。母と妹とで晩飯を食っていたはずなのだが……そう茫然としているうちに、火の手が俺の手前まで迫ってきた。熱い。俺はこのまま、死んでしまうのか。いや家族と共に死ぬのなら悪くないか。そう覚悟を決め、俺は目を閉じた。


 気がつけば、俺は見知らぬ天井を眺めていた。どこだここは。俺は死んだはずでは無いのか。上手く体を動かせないが、周りを見渡してみる。それで思い出した。俺はこの部屋を知っている。いつも病弱だった妹を連れて行っていた小さな診療所だ。そうだ。妹は、母はともう一度周りを見るが、確認できたのは俺に巻かれている赤茶色に染まった包帯だけだった。何が起こったのか。記憶を整理する前に見知った顔の医者が入ってきた。医者は私を見るなり顔色一つ変えずに、「目覚めたのかい」とだけ言い残して、奥へ引っ込んでしまった。
しばらくすると、医者が誰かを連れてやってきた。顔にやけどの跡が残っており、誰だか分らなかったが、思い出した。
「君が本当に無事でよかった。君がいなければ、僕は……」
と涙を流す。それは間違いなく、小さな頃からどこへ行くのにも一緒であり、俺の唯一無二の親友であった。昔から何かとお互いに勝負を挑み、成人を迎えるこの年までずっと勝ち負けを繰り返してきた。こんな東北の片田舎には同じくらいの子供が少なく、ましてや男となるとこいつくらいしかいなかった。もっとも、
「火事の中、お前を助け出したのは他でもない、彼だよ。まさに命の恩人だな。顔にこんな火傷跡まで残して、馬鹿だとは思うがその度胸は称賛に値するね」
医者はそうして言いたいことだけ言って、またどこかへ行ってしまった。
「お前が助けてくれたのか。本当にありがとう。そしてすまない。名家の嫡男のお前にその様な跡をつけることになってしまって……」
「いいんだ。僕にとっては、君を失うことよりも辛い事はない。こんな顔でも僕は全然かまわない」
そうか、と生返事をするも、そこから会話は続かず、病室は静寂に包まれていた。親友は悲しそうな顔をするだけで、何も言葉を発さない。
「ところで」
耐えられなくなってとにかく話を切り出す。
「俺の家族はどうなったんだ。母は。妹はどこだ」
そう問い詰めても返事をしてくれない。
「教えてくれ。例えお前が言ってくれなくとも、どのみち知ることになる。ならばいっそのこと、お前の口から聞きたいのだ。頼む」
そう懇願すると、諦めたように口を開いた。
「前の火事で、 君のお母さんと妹さんは、救えなかった。鎮火した後に残ったのは、2人とみられる灰だけだったのだ」
俺は何も言うことができなかった。ただ何故だかはわからないが自然と涙は出なかった。
「父は病気で早死にして、残った母と妹はこんなことになって……俺は正真正銘、天涯孤独の身となってしまったのか」
そう言い放つと、親友は「いや」と切り出した。
「少なくとも君には僕がついているし、孤独ではない」
「いや、俺は孤独だ。家族も代々守ってきた実家さえも失ってしまった。お天道様から見放されてしまったのだ。お前がいてくれようがいまいが、先祖様に合わす顔がない。俺のような男は、あの時そのまま死んでしまった方がよかったのだ」
「やめろ」
遮るように言った。
「そんなことは君の家族も望んでいない。きっと君には、この先の人生を謳歌してほしいと願っているはずだ」
そういって親友は、まっすぐこちらを見つめる。茶色がかったその眼には、わずかではあるが潤んでいるように見えた。
「君がいうそれが孤独というのなら、僕も同じようなものだ」
眼を擦りながらそう言う。
「何が孤独だ。お前には家柄も家族も広い家も残っているではないか。」
正直イラっとした。正真正銘すべてを失った俺と、一緒にされては困る。俺がそう怒鳴ると、顔のやけどの跡を撫でながら言った。
「言いたくはなかったが、実はこのやけどのせいで、家を追い出されそうになっているんだ。どうやら由緒ある家系の次期当主がこのような汚い顔をしていたら困るってさ。馬鹿馬鹿しいけど、実際家での扱いはかなり酷いものになった。ご飯は出てこないし、目も合わせてくれない。僕にかける言葉は罵倒だけだ」
旧来の友である俺は、こいつが家族のことを何よりも大事に思っている人間であることなど、当然知っていた。であるからこそ、そのような扱いがこいつにとってどのようなものであるかも、痛いほどに分かった。
「本当に済まない。俺なんかのせいで、こんな目に合わせてしまって……」
「いいんだ別に。別に当主になりたかったわけでもないし、こんな東北の片田舎で威張っていたってなにも楽しくない。それならいっそ、昔の約束を果たそうかと思うんだ」
「約束?」
「2人で約束したじゃないか。いつかは東京に行って偉くなって、どっちが大金持ちになれるか勝負しようぜって、言い出したのは君じゃないか」
さっきまでとは別人のように威勢良く、笑顔で語った。そういわれると、そんな約束をしたかもしれない。ただ子供の頃の話だから、あまり記憶がはっきりとはしていないのだが。
「家族も家も無くなった今、君もこんな村に未練はないだろう。僕も同じだ。あんな家に居続けるくらいなら、こっちから先に出て行ってやる」
凛々しい顔で宣言した。こういった思い切りの良さというのは昔から変わらない。
「分かった。一緒に東京へ行こう。そしてお互い、偉くなるんだ。お前の家族が悔しがるくらいの男になってやろうじゃないか」
うれしくなって、立ち上がりそう高らかに叫んでやった。膿が擦れて痛むが、そんなことはどうでもよかった。


膿も治り、満足に動けるようになった。退院の日まで、親友は毎日朝から晩まで付きっ切りで見舞いに来てくれた。ただそれは俺のことが心配だからとかではなく、単純に家での居場所がないからにすぎなかった。それでも俺のことを頼ってくれるのは素直にうれしかったし、何より親友の居場所にも慣れていることが誇らしかった。診療所には村の人たちが代わる代わる来てくれた。皆俺のことをかわいそうだとか同情してくれた。あまりに来るものだから、親友が面会を制限したほどだ。非常に、満足感を感じたのだ。


退院してからまず最初に向かったのは、俺の家があるはずだった場所だった。見慣れた坂道を歩いていき、辿り着く。分かってはいたことだったが、家があった場所にはただ空虚が居座っているだけだった。そこらに燃えた木の残骸が転がっているのが見えるだけで、あっけにとられてしまった。横にいた親友は俺の気持ちを察してか、何も言わないでいる。あるいは言えないでいた。それがありがたかった。
「俺たち家族が生きた証は、こんなにもあっけなく消えてしまうものなのだな……情けないが、分かってはいても理解したくない自分がいる」
独り言のようにつぶやく、それでも親友は何も言わずに俺の背中をぽんと軽くたたくだけだった。
そのまま歩みを進める。ここは確か、居間があった辺りだろうか。最後に母と妹が倒れていたのも、居間だった。火事の時を思い出す。どうしても、何故火事になったかは思い出せない。一体あの記憶より前に、何をしていたのだろうか。なぁ、と親友に話しかけようと後ろを向いた時、何かが足にこつん、と当たった。下を見ると、骨が転がっていた。ぎょっとして足元を見渡すと、所々に骨が散らばっている事に気づいた。親友と目を合わそうとするが、先に吐き気が来てしまった。その場にうずくまりえずいて、自然と涙も出てきてしまった。親友は何かを言って俺の背中を撫でるが、余計に気分が悪い。この時初めて、家族も家も失ってしまったという事実を直視してしまったように思えた。吐瀉物は堪えた。家族と生きたこの場所を汚したくはなかったから。

おおかた準備は整ったので、最後に親友の実家へ挨拶させてくれと懇願した。中々に嫌がったが、ガキの頃から世話になったし、父が死んでからは多少の手助けもしてもらった。無言で去るほどの不義理はないと説得すると、渋々了承してくれた。
「帰ってきたのか穀潰し。帰ってくるなと言った……」
親友に向かって罵詈雑言を浴びせるが、俺の方を見るや否や、突然態度を改めた。
「おぉ、君も一緒だったのか。いやあのことが起きてからしばらく見てなかったが、元気そうでよかった。どうぞ入って。お茶でも出そう。お前も来い!」
あからさまに俺と親友とで態度を変える。そうして背を向ける親友の父親に、思わず2人で苦笑いしてしまった。
見事な屋敷の中の一角にあるきく客間に、畳の上に敷かれた座布団に座らされる俺と、客間に入ることすら許されず、廊下に何も敷かず固い板張りの上で正座させられる親友。
それを気の毒そうに見る遣いの家政婦と気にも留めない父親とで屋敷の中は異様な雰囲気に包まれていた。
「それにしても、この間のことは残念だったね。我々も消化活動に参加したのだが、君の家族を救い出すことは叶わなかった。いや、君が助かっただけでも本当に幸運だったよ」
実の息子にしている仕打ちと、俺への優しさとが乖離していて気味が悪い。
「おまけにうちの馬鹿は巻き込まれてこのザマだ。本当に情けないやつだ。由緒正しき家系に相応しくない男だ。それに比べて君は、あの状況から生き延びるような凄まじい生命力だ。どうだ、君さえ良ければうちの養子になって跡を継がないか。このような傷モノよりも、君のような男の方が相応しい」
思わぬ提案に呆気を取られる。親友の方をチラリとみると、正座をしているその手は、拳が服をぐしゃりと掴んでいた。もしかしたら悪くない提案なのかもしれないが、それ以上に火事からの親友への扱いの方が頭に来ていた。答えは決まっていた。
「お父さん。申し訳ないですが、お断りします。今日はそのようなことを話しに来たのではないのです。俺はこいつと、東京に行きます」
そのような答えなど想定していなかったのか、目を丸くしている。
「それに、何故こいつが火傷してしまう事になってしまったかご存知ですか?こいつが火の中から救い出してくれたのです。火傷は、その時にできてしまった言わば、名誉の負傷なのです。何も知らないくせに馬鹿にするんじゃない」
「何故そのような奴が良いのだ。ただの傷モノじゃあないか」
焦ってそういう父親に、俺は服を脱いで上半身裸になった。俺にも顔には無かったものの、上半身にはひどい火傷跡が残っている。
「こいつが傷モノだというのなら、俺も傷モノです。ここの養子になる理由はないと思います。そもそも俺の親友を罵倒する人の言うことなど、聞きたくもありません」
俺がそう言うと、何か言いたげに口を動かしているが、聞きたくも無かったので、さっさと服を着なおして親友の腕を掴んで屋敷を後にした。歩きながら、親友は言った。
「ありがとう。なんだか楽になったよ」
その言葉に、俺はふんと鼻を鳴らす。
「いや、最後にあれくらいのことは言ってやらないと俺の気が済まなかったんだ。もう二度と会わんかもしれんが、あんな人だとは思ってもいなかった」
昔ガキの頃の記憶にある親友の父親は、もっと柔和で温厚な人だったはずなのだが、何が彼をああさせてしまったのか。答えは明白だった。
「本当にすまない。俺のせいで、お前がつらく悲しい思いをさせることになってしまって」
「何度も言うなよ。父親の本性を知れただけでも、俺はお前に感謝している。心機一転だ。もう過去のことは忘れようじゃあないか」
冬が明け、桜の蕾が膨らむ頃、そうして俺たちは、20年間過ごした村を去ったのだ。


何年か前に、東北にも東京への汽車が通った。随分と駅までは歩かされたが、それも親友が隣なら苦にはならなかった。汽車へ乗り込む。おおよそ10時間くらいはかかるらしい。
「しかしあの火事は、なぜ起こったのだろうか。母も妹も、そのような危なっかしい人ではないし、もし何かあっても3人いれば鎮火できるはずだ。だが何故だか分からないが火事が起こった時の記憶がすっぽり抜け落ちているのだ。」
話題は火事の話になる。
親友は何かを考えているように間をとって話す。
「分からない。僕が駆け付けた時には、君が意識なく倒れているのを見ただけだから、詳しいことはわからない。ただ誰かが起こしてしまったから火事が起こっているのだから、お母様か妹さんが何か間違えたか、あるいは別の第三者が火を放ったかのどちらかしかありえないと思うのだけれど……」
「まさか。放火だとでもいうのか。あの村にそのようなことをする悪人はいないだろうし、されるほど恨まれるようなことはしていない。しかしそれなら尚更分からないな」
結局のところ分からない。一体あの火事はだれが起こしたものなのだろうか。
「しかしこんなにも自由の身になったのもいつぶりだろうか。これまでは妹の看病だったり、父親の看病だったりで、思う存分に生きていけなかったから、皮肉にも開放感を感じてしまっている。とんだ親不孝者だ」
「そうか、そういえば君はあの診療所にはよく通っていたな。2人とも似たような症状だったとか」
「あぁ、めまいや吐き気が頻繁に起こっていてな。父親は俺が生まれてから発症したらしいが、妹は小さいころから病気がちだったな。いつも俺が看病したり、診療所に連れて行っていたな。それももうないと考えると、どこか寂しくも感じるな」
窓からの景色を見ながら感傷に浸るが、親友からの返事はなかった。


東京についてからまず住居と職を何とか用意した。住居のほうは心優しい老夫婦の家に居候させてもらえることになった。職もその老夫婦のツテで新聞社に入ることができた。
親友も何とか生活の基盤を整えることができ、それぞれの勝負が始まったのだ。
「しかし東京の夏は暑いな。少し歩くだけで汗で服の色が濃くなってしまう」
それぞれなんとか東京での生活も順応していき、2人で遊ぶ余裕も出てきた。夏にもなると、村では体験したことのなかった暑さに見舞われた。親友は素麺を啜りながら暑さに嘆いている。走ってもいないのに汗をかくなど、村では考えられなかった話だ。
「この勝負の答え合わせだが、20年後でどうだ。お互い40で一番脂がのっているだろう。それまで会わないでいて、そのすべてをまた会ったときに見比べるのだ」
日も暮れ始め、川沿いにあった公園に腰かけていると、お前はそういった。夕日と火傷跡が合わさって深い赤に輝いていて、痛々しく見えるが、どこかその顔は俺に凛々しさをも感じさせた。
「別に会わないまでいかなくともいいじゃあないか。せめて1年おきだとか、それくらいではあってもいいのではないか。俺とお前は、孤独を分かち合った中ではないか。更に孤独になるつもりか」
俺がそう返すと、お前はふっと笑った。
「なぁに、昔と本質は変わらないさ。例えばどちらがカブトムシを多く捕まえられるか競った時も、暗くなってから初めて合流して結果を共有したじゃないか。それと同じだ。途中経過を聞いてしまってもつまらないし、競争相手の現状が分からないこそ、油断せずに際限なく努力できるのではないか。この勝負は互いの人生がかかっている。張り合いを持たせたほうが興奮するだろう?」
そう言ったお前の提案は、実にもっともらしいように聞こえた。俺はニヤッと笑いながら
「あぁ分かった。お前のことだ。相当偉くなるだろうが、負けるつもりはない。それじゃあ20年後の今日、この公園でこの川を見ながら、その20年間を語り合おうじゃないか」
俺は拳を親友に向けた。それに呼応するように、親友も拳を出し、合わせて約束した。
「しかし田舎もいいものだが、東京の建物だらけの景色というのも格別に素晴らしいな。思わず見入ってしまう」

川沿いの景色を見てそう言った。
「あぁ、本当に。」
俺はあの時、どんな顔をしていたのだろうか。
「全て壊してしまいたい程にな」


あれから、様々な試練が、俺たちに降りかかった。 
20年後の約束の日。その数か月前に、東京に大地震が起こった。なんとか自分の体は守り、地震も治まった。一度崩れた東京の街も、なんとか復興に向けて動き出している。つい少し前まで綺麗な屋敷がそこかしこにあった東京。今となっては地震とそれに付随して起こった火事のせいもあって、瓦礫と灰がそこら中に残っている。思わず胸の高鳴りを覚えてしまう。20年もたつと、震災で崩れたのも相まってあの頃とは全く違う景色をしていた。それでも迷うことなく、歩みを進める。そしてたどり着いたのは親友と約束を誓ったあの公園だ。公園の中はまだ倒れた木がそのまま放置されている。それを椅子代わりに、ボロ布をまとった乞食のような男が垣根にもたれかかっていた。顔の火傷跡が特徴的なのも相まって、一目でそうだとわかった。
「お前、久しぶりじゃないか。元気していたのか?いやもっとも、そんな身なりじゃあ大方想像はできるが」
そう俺が話しかけてもそれは死体のように静かだった。
「変わってしまったな。お互いに。良くも悪くもではあるが」
それはまだ、動かない。それでもよかった。
「そっちはどうだ。この20年間、今のお前にゃもったいないくらいの、とびきりの土産話があるんだ。少し長くはなるが、聞いてくれるか」
反応がなくとも構わない、俺は気にせず語り出す。
「あの日お前と別れてから、新聞社でとにかく馬車馬のように働いたんだ。その甲斐もあってか、上からの評価も良かったし、出世も他に比べて早かった。全ては今日、この日のために偉くなってやろうという思いからだ。お前と今日まで答え合わせが出来ない以上、ひたすら努力するしかなかったのだ。お前の思惑道理に俺は動かされていたのだ」
そう語りかけてもまだこちらに顔を向けることすらしない。
「お前と会わない内に、まず居候していた家の老夫婦が相次いで死んだ。吐いたり倒れたりして、あっけなく死んでしまった。年だったし、老衰ということだった。夫婦の子は戦争で死んでしまったから、家は俺に与えると遺言を残してくれた。そんな中で結婚もしたんだ。相手は可愛がってもらっていた上司の娘さんだった。頭は少し弱いが、愛嬌があって俺のことを愛してくれるとても良い妻だった。家が元からあったのも幸いして、他の家に比べたら多少裕福な暮らしをさせれたと思う」
未だそれは、動かない。
「お前と会わないうちに、子供もできた。男が2人生まれて、家族仲も良かった。下の子はかつての俺の妹のように虚弱な体質ではあるが、我ながら立派な家庭を築きあげたと思っていたのだ」
空を見上げながら、続ける。
「でも何かが満たされなかったのだ。皆から羨ましがられるような人生を送りながらも、俺の心にはぽっかりと穴が開いていたのだ。だがその正体はわからない。何をしてもその穴だけは満たされなかったのだ」
それの瞳孔が少し動いた気がした。
「そんな時、戦争が起こった。俺は徴兵されるのかと思うとなぜか心が躍ったのだ。それがなぜなのかは分からない。国や陛下への忠誠心なのか。あるいは埋まらない心の穴を埋めようとする本能的なものだったのか。だが一家の大黒柱でもあり新聞社の人間でもある俺は徴兵されなかった。戦況を報道する形で戦争に関わったのだ。家族や周りからはよかったといわれる。それでも俺はやるせない気持ちが募っていたのだ」
こちらを見ているかのような素振りを見せるそれは、夕日に照らされ、約束したときの親友の面影を見せていた。
「そんな時、俺の人生を変える出来事が起こったのだ。お前も知っているだろう。震災だ。あれのせいで、俺の家が崩れた。新聞社だって経営が厳しくなった。そして何より、長男が瓦礫に巻き込まれてしまい死んだ」
それは完全にこちらを見ていた。
「だがそんな絶望的なはずの状況の中、何故か俺は満たされていたのだ。全てが台無しになって初めて、俺の人生が始まったように感じたんだ。人々は俺を同情し、憐れんだ。残った家族でさえも、私を哀れんだ。その時初めて、俺が求めていたものが何か分かったのだ」
完全に目が合った。果たして俺の顔はどのように映っているのだろうか。
「俺がこれまで自然と求めていたもの、それは同情。そして憐みの思いだということに気が付いた。もっと可哀想という感情が乗ったあの視線が欲しい。憐みの言葉が欲しい。それが俺を満足させる、唯一のものだったのだ。だから手始めに、俺がこれまで積上げてきたものを壊した。震災で治安など無いのをいい事に、残った家の瓦礫すら粉々にし、自分さえも傷つけた。それに」
目を見開いているのが分かる。
「家族も殺した。治安の悪いあの時分なら、強盗にやられたとでも言えば説明はつく。とにかく築き上げてきたものはめちゃくちゃに壊してやったのだ。そうして俺は、欲しかった同情をさらに誘って、満たされたのだ。どちらが偉くなるかよりも、満たされる方を選んだのだ。勝ち負けはどうでもいい。満足できればな」
それはしばらくこちらを見て止まっていたが、やがて口を開いた。
「私は一刻も早く、一攫千金を目指したのだ。だから働いて貰った金を全部、賭博に回した。初めは上手く稼いだのだ。この調子なら手っ取り早く自由に暮らせると思ったのだ」
「だがそう甘くは無かったのだ。初めのふり戻しが来たのか、そこから負け続けた。そのうちに金が足らなくなり、同僚や友に金を借りてそれも全て賭博に費やしたのだ。だが親友よ。君だけには金をせびらなかった。今日この日のために、君を頼ることだけはしなかったのだ」
地に這いつくばりながらそれは話す。
「賭博も人間関係も何も上手くいかず、会社での信用も失い解雇された。友も職も失った私に残ったのは、莫大な借金と君とだけだった。それからずっと、借金取りから逃げるだけの人生だ。君の様な素晴らしい人生は、送れなかった」
咽び泣きながらそういった。
「20年前の勝負。これは君の勝ちだ。だがもう一度、私にまだ慈悲をくれるのなら、チャンスをくれないか?もう20年後、またここで同じ勝負をしようではないか。お前との絆を、こんな所で終わらせたくないのだ」
そう土下座して頼む姿は、老婆にも見えた。
「いや俺は今日、答え合わせのためにここに来たのでは無い」
乞食の首に手をかける。
「俺はこれまでに積み上げたもの全てを壊して同情をもらうつもりだ。もちろん、お前もだ」
そうして指に力を入れようとする。
「待て!」
乞食はそう叫んだ。
「慈悲がないなら、受け入れよう。俺を殺すなら好きにすればいい。だが最後に、昔話をしないか」
「昔話だと」
「あぁ。あの村での話だ。君が知らない真実を、僕は知っている」
「なんだと。言ってみろ」
手を放し、乞食はせき込む。呼吸を整えたのち、語りだした。
「俺はお前を止めることができなかった。だが俺は知っていたのだ。あの村にいたころから、お前のその同情を求めるような性分があったことに。気づいていたのだ」
背筋が凍る。まさか、村のころからこのような感情が沸き上がったことはないはずだ。
「君自身には自覚がなかったのだと思う。というより、君の中に、もう一人同情を求める君がいたようにしか思えない。地震でたまたまそれが表に出てきたにすぎないのだろう。そう断言できるんだ」
「何故だ。お前に何がわかるのだ」
「分かるさ。何故なら、君の母親と妹を殺したのは、君自身だからさ」
心臓が跳ね上がったのが分かった。乞食はお前がやったと言わんばかりにまっすぐこちらを見つめてくる。これほどまでに、この男を恐ろしいと思ったことは今までなかった。
「僕は火事の時、確かに君を助けに家の中に入った。けれどもその中で見たのは、君のお母様と妹さんが血を流して倒れている姿と、返り血と火で真っ赤に染まった君の姿だったんだ」
嘘だ。そんなの、信じない。
「君だって不思議がっていたのだろう?誰が一体火をつけたのか。君だよ。2人を殺した後、焼死だと思わせるために、わざと家に火を放ったんだ。そうするとすべて説明がつく」
「そんなわけがないだろ!俺は病気の父や妹を看病するほどに、家族を愛していたんだ。そんな俺が、家族を殺すわけないだろう!」
「その点も、君自身には自覚がなかったのかもしれないが、それすらも君の同情を求めるが故に引き起こしたものなんだ。これは火事の後、あの診療所の先生から聞いた情報だ」
冷酷な顔で話し続ける男を前に、俺は理解をできずにいた。
「先生いわく、君のお父様と妹さんに出ていた症状は、単なる病気で引き起こされるようなものではないのだと。言ってしまえば、毒物を飲んだ時に起こるような症状らしい。先生は気づいていた。だが直接言って、人に毒を飲ませる男が何をしてくるかは分からない。だから君が火事の後まだ眠っている間に、僕にだけこのことを伝えた。僕も言うべきか悩んだ。だがあの時、君にそれを言ってしまって何かが起こったら、家族から見放された僕は本当の孤独を知ることになってしまう。それを恐れて言えなかった。僕は君よりも、自分自身のことを優先してしまったのだ。許してくれ」
いつの間にか俺は、膝から崩れ落ちていた。
乞食は続けて話す。
「君が居候していた老夫婦の最期や子供の病気も引っかかった。君は東京へ来てからも毒を盛って同じようなことを繰り返していたのではないか。それでも果てぬ同情への欲望が結果的に、気づかぬうちに自分自身で人生を仕組んでいたのではないか。そうだろう?」
親友は冷たく言い放った。俺はただ、何も言えずに座り込むことしか出来なかった。
「殺したいなら殺せ。同情が欲しいのだろう?だが、同情というのは長続きしない。そのうち皆忘れる。同情もなくなり、失うものすら失った君が、どのような結末を迎えるのか、地獄で聞かせてくれよ」
親友は、不敵な笑みを浮かべている。俺は、どのような表情をしているのだろうか。

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