【掌編小説】マイワシに失礼
「それは、マイワシに失礼ではないでしょうか?」
芸術家気取りが陶然と生命の美学を語っていた時、その一瞬の沈黙を突いて、委員長が横から口を挟んだ。
事の発端は、「お題は、『生まれ変わるなら何になりたい?』にしましょう」と先生がにこやかに提言した時まで遡る。
生まれ変わるなら何になりたい? カツカツカツカツ、と心地良い音を弾ませて、先生が黒板にチョークを滑らせる。整った白い字を眺めながら、わたしと丸メガネ博士と委員長と芸術家気取りの四人は机をくっつけて、書かれたお題について考えた。おそらく、あまり話したことのない人同士を組ませたかったのだろう、班員は先生によってあらかじめ決められていた。
「さて、生まれ変わるなら何になりたい、とのことですが」まずはじめに、司会進行役の丸メガネ博士が沈黙を破った。「シラユリさんはどうですか?」
同じ教室にいても、強制的に向かい合わないと、決して交わることのない四人。だからこそ、率先して淡々と議論を前に進めてくれる丸メガネ博士のような存在は非常にありがたかった。
「そうですね……」訊ねられた委員長が目で頷き、静かに口を開く。「やはり……、生まれ変わっても、また私になれたら理想ですね」
あまりにも美しい間に触れてから零れ落ちた答えに、聴いていた三人は思わず息を呑んだ。
「ふむ、続けてください」
丸メガネ博士が右手で眼鏡の位置をクイッと直し、委員長に続きを促す。
「ありがとう」委員長が丸メガネ博士に視線を流し、穏やかに微笑む。「この結論に至った背景は、大きく分けて三つあります。まず一つ目は、私は私という生き方しか知らない、ということ。人間として、女として、私として生まれ、今日この瞬間まで生きてきて、いえ、生きてきたからこそ、私は他の生き方というものに想像を馳せることができません。こんな道を歩んでみたい、あるいは、こんなふうに生きたくはない……、鳥や魚、虫や他の人など、様々な生き物の姿を目の当たりにしても、そのような羨望や忌避の念が湧いてこないのです。ある花をどれだけ愛おしく想っても、その花に生まれ変わりたいとは思わない。それは私が、花を愛おしく想う私であるがゆえに抱く感情だからです。そして、それが再び私に生まれ変わりたい、と感じる二つ目の理由に繋がります。すなわち、私は、私のすべてを肯定することにしているのです。容姿や性格、思考傾向、遺伝的な体質まで含めて、このような人間が私である、という事実を、私はただ誇らしく思っています。今までに経験した数々の失敗や後悔、その末に成し得た僅かな学び、それらを生まれ変わることで手放したくはありません。生まれ持って替えられない欠点でさえも、そのすべてが私たらしめている大切な宝物です。私として生きていること、他にこれに勝る喜びはありません。そして、最後にして最大の理由、それは、私は私のことをさほど理解できていないためです。私は最初の理由に、私以外の生き方を思い描けないことを挙げましたが、それは私自身を取り巻く無明に起因するものです。少なくとも、私はそう感じています。私という生き物を確信しきれていないがゆえに、もっともっと私のことを理解したい。そのような知性の欲に私は絆されており、悪い言い方をすれば、そのような邪念に深く苛まれているからこそ、他の生命に対する想像力が欠落しているのだと思うのです。恐らく、私が死ぬその瞬間にも、私は自分のことを完全に理解した、と感じることはないでしょう。しかし、再び私に生まれ変わることができれば、その私がまた死ぬ際には、前の私よりかは少しばかり、私について解ったことが増えているような気がします。前世の私の記憶を引き継げるという話が前提にはなってしまいますが、そのようなささやかな期待も込めて、私は他でもない私自身に、もう一度生まれ変わることを望みます」
ふっと口を閉じた委員長は、どこまでも清廉潔白で気高い花のようだった。
沈黙。しかし心なしか、おー、というどよめきが聞こえたような気もしなくもなかった。
「シラユリさん、ありがとうございます。自身の死生観に対して、実に素直な心で臨んでいると感じました。では、トーカさんはいかがですか?」
丸メガネ博士に視線を向けられ、わたしは内心で絶望した。
「あー、えーと……、はい……」
この後に続けるわけがないだろう。流れに合わせて人間と言っておくべきか、それとも、鳥に生まれ変わりたいという本心を打ち明けるべきか。
もじもじしていると、委員長と目が合った。彼女は澄んだ瞳でふわりと柔らかく微笑んで、逆に、わたしの緊張はさらに強張った。
「何も怖がることはないよ」すると、芸術家気取りがひとつ咳払いをして、感情の読めない声で初めて口を開いた。「生まれ変わるなら何になりたいか。その問いに対して、君の思うままを述べればいい」
「そ、そうだよね。じゃあ……」後押しに応えて、私は口を開いた。「わ、わたしは、その……、と、鳥に生まれ変わってみたいなぁ、なんて思います」
「ほう、鳥、ですか」右手で眼鏡を直す丸メガネ博士。
「いいね、鳥」腕を組んで大きく頷く芸術家気取り。
二人の反応を見て、わたしは少し安堵して続けた。
「えと……、理由は、自分の身体で空を飛んでみたいなぁ、って、思うからです。風を感じて、自由に羽ばたいていける鳥にとって、世界はどんなふうに見えてるのかな、っていうのはすごく気になるから……、あの、えーと……、あ、以上です」
口を閉じた時には、わたしは俯いていた。
浅い。浅すぎる。ひどくちっぽけな回答。こんなの、何も言ってないようなものだ。達観した委員長の後だから、余計にそんなふうに思うのかもしれない。
「トーカさん、ありがとうございます。たしかに、自身の翼で空を飛ぶ鳥たちの感覚には、僕も興味があります。では、キリノくんはどうですか?」
淡々と発言を振っていく丸メガネ博士。彼の整然とした振る舞いに、わたしの中に生まれた卑屈な気持ちは少しだけ和らいだ。
「ぼくは……」ひとつ深呼吸をして、芸術家気取りが口を開いた。「無に生まれ変わりたい」
「ム?」委員長が首を傾げる。
「そう、何も無い、の無だね」
「……ふむ、続けて頂けますか?」
丸メガネ博士も理解に苦しむといった様子で眉を顰めたが、すぐに右手で眼鏡をクイッと直して、芸術家気取りに続きを促した。
「続きも何も、これ以上話すことなんてないさ。要するに、ぼくは何にも生まれ変わりたくない、と言っているんだ」
「お題に対する答えになっていません」委員長がすかさず言う。「お題は、生まれ変わるなら何になりたいか、です。何かに生まれ変わることは前提に置いてもらわないと……」
「だから、言っている。虚無、空白、零……そのような類の状態に、ぼくは生まれ変わりたいんだと」
沈黙。
「……無いが在る、ということでしょうか」と神妙な面持ちで呟く丸メガネ博士。
「そういうこと」と指を鳴らす芸術家気取り。
「な……、なる、ほど?」と何も解っていないわたし。
「……では、何にも生まれ変わりたくはない、とおっしゃる理由を聴かせて頂けますか?」と委員長。たぶん、怒っている。
「強いてひとつ理由を挙げるとしたら……」芸術家気取りはゆっくりと瞼を閉じて、そのまま滔々と語り出した。「生きるという行為は、あまりにも残酷すぎるから、かな。食べて、動いて、排泄して、眠る。死ぬまで、ただこれを繰り返す。人間としてこの地に生まれたぼくたちは、動物として人間の遺伝子を繋ぐために創られた進化の懸け橋に他ならない。飢えに苦しみ、労働に苦しみ、性衝動に苦しみ、孤独を満たし合いたいという欲に駆られた男女のまぐわいによって、いのちは誕生を強いられる。ぼくが望んでいなくとも、ぼくは生まれ、死ぬまでの最中で彼らと同じように、食べて、動いて、排泄して、眠る。増えすぎた社会は戦争と平和をただ往来し、減り始めた社会は消失の一途を辿る。人間なんてその典型だ。増えも減りもしない社会であっても、食物連鎖の狭間に置かれて延々と悶えることになる。盛者必衰、弱肉強食の理。そこには感情も脈絡もなく、ただ、理不尽だけが存在している。生まれて何かを成すことに意味なんかなくて、来る最期には皆が皆、耐え難い苦痛に喘いで死んでいく。そんな非情な自然に再び生まれ落ちる運命なんて、ぼくは微塵も望まないよ」
ふっと口を閉じて、芸術家気取りはゆっくりと目を開けた。その眼差しからは、やはり感情が読めなかった。
再び沈黙。言葉通り、そこには虚無だけが在った。
「ありがとうございます。話を伺う限り、生き死にの循環を俯瞰したキリノくんの意見はシラユリさんとは相反するものでしたが、これもまた、とても興味深い死生観でした。それでは最後に、僕が何に生まれ変わりたいか、ということですが……」
「循環、とは少し違うけどね」「待ってください」
司会進行役の丸メガネ博士を遮って、芸術家気取りと委員長がほぼ同時に口を開いた。
「待ってください」場を制すように、再び語気を強める委員長。その口元には穏やかな微笑が浮かんでいるが、瞳の奥からは滾る何かが滲み出ている。「理由を聴いても、答えになっていないように思えます。何かに生まれ変わる。この場合の“何か”という存在は、やはり、形有る生き物でなければならない、そう思うのですが」
生まれ変わっても自分でありたい、という芯の通った考えをもつ委員長は、無に生まれ変わる、という芸術家気取りの思想に納得がいっていないようだ。
「……」二人の様子を窺う丸メガネ博士。
「……」答えになっているかいないか、それ以前のことも含めて、何ひとつ解っていないわたしは口を噤むしかない。
「いいや、答えになっている。何に生まれ変わりたいか、という問に対して、無に生まれ変わりたい、と答えた。ここに何も、不整合はないだろう」
「いいえ、不整合です。百円支払う、という行為を、マイナス百円受け取る、とは言わないでしょう。あなたの答え方はそのようなもので、答えに聞こえるような話をとってつけて、論をはぐらかしているだけに感じます」
委員長の言葉が癪に障ったのか、芸術家気取りは面倒くさそうに口元を歪めた。
「……では、何かに生まれ変わらなければならず、かつ、その“何か”は形有る生き物でなければならない、という範囲に限定した時、キリノくんの答えはどうですか?」
気難しそうに口元を両手で覆って、丸メガネ博士が沈黙を破った。
「意味のない質問だね」と肩を竦める芸術家気取り。
「答えなさい」といつの間にか命令口調の委員長。
先生は他の班の輪に加わって、何やら楽しそうに喋っている。教室の隅でバチバチと火花が弾け散っていることなど、全く気にも留めていない様子だ。
「はあ……」溜息を吐いたのは、わたしではなく、芸術家気取りだった。「じゃあ、真鰯に生まれ変わろう」
「「「マイワシ?」」」と委員長、丸メガネ博士、わたし。イントネーションまで見事にハモったが、笑顔が咲くことはない。お願いだから咲いてくれ。
「ああ、ベイト・ボールを知っているだろう。彼らは極端に大きな群れを成して、集団として目立ってしまう代わりに、個体として自分が生き残る確率を上げているんだ。あの生き様は素晴らしい。自分自身が自然界において、捕食者に抗う術をもたない弱い存在だということを、本能的に理解しているからこそ為せる業だ。でも、喰われる時は一瞬だ。一瞬のうちに噛みつかれて呑まれて、その生涯に幕を閉じる。あれだけ潔く死ぬことができたら、まだ生きている価値もあるだろうね。ズルズル生き長らえている人間なんかよりも、よっぽどマシだ」
沈黙。
ここで、話は冒頭に巻き戻る。
「それは、マイワシに失礼ではないでしょうか?」
芸術家気取りが陶然と生命の美学を語っていた時、その一瞬の沈黙を突いて、委員長が横から口を挟んだ。
ハッとして隣を見上げると、いつの間にか先生がわたしたちの班をニコニコと覗いていた。
授業の一環だということも忘れ、おそらく机の周りに野次馬ができていることにも気づいていない委員長と芸術家気取りの議論はどんどんヒートアップしていく。
「トーカちゃん、なんか疲れてる?」
鼻唄でも歌うように軽やかに訊ねてくる先生。
「……はい、とっても」
終わりの見えない、不毛にも思える二人の白熱した言い合いを眺めながら、わたしは肩を落とした。
「どうして、あの二人を組ませたんですか……?」
丸メガネ博士が呆れた声で先生に訊ねた。
その疑問に、わたしも大きく頷いた。この二人は、間違いなく、絶対に関わるべきではない。
「あの二人だけじゃないわ。あたしはね、あなたたちも入れて、この四人を組ませたのよ」
人差し指を立ててウインクをする時の先生は、何か大事なことを言っている、はずだった。
わたしと丸メガネ博士は目を合わせる。わたしは左手でこめかみのあたりを押さえて、丸メガネ博士は右手で眼鏡の位置をクイッと直した。
「理解し合えなくてもいい。でも、受け入れられませんでした、で終わらせないでね。トーカちゃんも、ハカセくんも、この班には必要不可欠なんだから」
すべてを舞い上がらせて包み込むような温かい笑みを吹かせて、先生は柔らかく言うのだった。