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#3 村上春樹『騎士団長殺し』を読んで

こんにちは.あるいはこんばんは.
今回は、村上春樹の『騎士団長殺し』を読んだ感想を語りたいと思います.村上春樹といえば著作に根強いファンがいることで知られていると思うのですが、あくまで私はエンジョイ勢であることを最初にいっておきます.本作を通じて感じたことをつらつら書きたいと思います.

1.『騎士団長殺し』とは

(1)概要

『騎士団長殺し(以下、本作)』は、2017年2月に刊行された村上春樹の書き下ろし長編.有名な『1Q84』から7年後の刊行で.当時本作が刊行された際、私は大学1年生で、当時村上春樹を読んだことはなかったのだが、波に乗って本作を買い求めて読んだことがある.だから本作を通読するのは2回目だ(でも7年以上ぶりだ).

村上春樹といえば1作あたりの物語が非常に長編で、その例を挙げれば枚挙にいとまがない(いくつか挙げるとすると、『海辺のカフカ』、『1Q84』、『ノルウェイの森』、『ねじまき島クロニクル』等々).私は全ての著作を読んだわけでないが、本作も例に漏れず長編で、第1部・第2部合わせて1,000ページを超える長編となっている.

第1部 顕れるイデア編
第2部 遷ろうメタファー編

新潮社のHPより
同上

(2)簡単なあらすじ

新潮社のHPより引用する.

その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの、山の上に住んでいた。夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた……それは孤独で静謐な日々であるはずだった。騎士団長が顕(あらわ)れるまでは。

新潮社のHPより

もう少し補足すると、「私」は三十代中盤の画家で、肖像画を書くことを生業としていた.「私」には妻がいたのだが、その妻から突然、もう一緒には暮らせないことを宣告される.「私」以外に性的な関係を持つ男性がおり、その男性と一緒になることを告げられたのだ.「私」は家を出ていき、上記の狭い谷間の入り口近くの、山の上に住むことになる.

その家は、「私」の大学時代からの友人の父で、高名な日本画家が住んでいたものだ.その家で「孤独で静謐な日々」を過ごすはずだったが、ある日屋根裏で1作の日本画を見つけてから、「私」の周りで様々な物事が相互に関連しあい、私はその渦に巻き込まれていく…、そんな物語となっている(ぜひご自分で読んでいただきたい).

2.感想

(1)面白いが「よく分からない」

本作は(本作も?)、個人的にはなかなか「よく分からない」作品だった.私は決して村上春樹の著作が嫌いなわけではなく、むしろ好きな方であると考えているのだが、読後の印象は概ね毎回「よく分からない」になることが多い(他の大勢の読者も同じ感想であることが多いのではないだろうか).

しかし、面白くないのかと言われればそんなことはなくとても面白いし、先が気になって仕方ない.読後には大きな満足感もある.ただし一言で言うなら「よく分からない」になってしまうのだ.

「よく分からな」くなった理由は、大きく二つあるだろうと考えている.
まず、本作のスタイルについて.本作は、「私」がかつて住んでいた山の上の家での出来事に関する回顧録の体裁をとっている.そのため、「私」は可能な限り聞き手に向けて理路整然と話そうとしているのだが、時折「連想ゲーム」のように脈絡のない方向へシーンが移動したりすることがよくある.
回顧録であるのであれば、語り手の思い出す順番や、記憶のあやのような形でそのような脈絡のなさになってしまうことは一定仕方がないし、その方がリアリティがある.

また、本作自体のストーリー(つまり「私」の体験)に摩訶不思議なところが多い点も理由として挙げられるだろう.この点が、「私」が理路整然と語ることをとても難しくしている.比喩も美しいが難しいものも多い.ただ、これらは私があまりここで多くを語らない方がいいと思う.本作の「私」から、彼の物語を聞いた方がいい.

(2)では、何故本作は、村上春樹は面白いのか

本作を含む村上春樹の著作において、個人的に重要な要素は「一貫して「私」による自分語りである」点だ.これは本当に外せない部分だと思う.これがあるから物語へ没入できるし、我々は村上春樹の著作を面白いと感じることができるのだと思う.

作品を通してずーっと、「私」が語り部となって我々読者に語りかけるスタイルは、我々が「私」の体験に没入することを容易にしてくれる.「私」の考えや気持ちはいくらでも描写され、我々はまさに「私」の人生の一部を同時的に体験することができる.
第三者的に語られるような物語ではこうはいかない.第三者的に語られるとき、我々は彼ら全員からその気持ちや思いが明かされ、物語を俯瞰することができるが、我々の立場はあくまで部外者だ.登場人物たちの演じる劇を見ているような感覚に近い.

「私」によるモノローグでは、「私」に相対する人が何を考えているのかは「私」の側から想像するしかない.もちろんコミュニケーションを経て、登場人物が何を考えているのかある程度のところまで推察することはできるが、本当のところで何を考えているのかは決して分からない.本作は、特に本当は何を考えているのか分からない不思議な登場人物が多く登場する.
その意味で、村上春樹の著作は「私」および現実の我々と物語の登場人物と間のコミュニケーションだと言えるし、これは現実世界で我々が普段実際に行うコミュニケーションと地続きだ.
こういう他者とのリアルな関わりを含めて、文字どおり我々の人生がどこに向かっていくのだろうという、(大なり小なりの)冒険心のようなものが、物語を面白いと思わせる要因なのだろうと思う.

(3)「私」と相容れないときには

「私」によるモノローグでは、一貫して「私」の視点から考えが語られ、「私」の推測に基づいて行動し、物語は展開していく.
だからこそ、「私」の人物像が我々自身の考え方と相容れない場合は、その作品を読むことがすこぶるしんどくなるというデメリットはある.
幸い、本作の「私」は文字どおりの私自身の器との親和性は悪くなかったので、「私」の人生を楽しんで体験できた.一方、上記のような器の不整合があった場合に「この話はつまらなかった」という感想になってしまうのではないだろうか.
でもこれは自然なことだ.現実の我々に人と人との相性があるように、自分自身の器に相容れない「私」に出会ってしまうこともあるだろう.そういう場合は、無理に「私」に合わせようとするのではなく、おとなしく距離をとる(つまり、物語を読むのをやめる)のでいいのではと思う.心地よい「私」を改めて探すことでいいと思う.この「私」のほかに、もっと心地よい「私」を提供してくれる本はきっとたくさんあるはずなのだから.

3.最後に

本作の感想というよりは、「私の些細な村上春樹論」のような記事になってしまいましたし、思ったとおりに書いたので議論が発散しているような気もしますが、ご了承ください…笑
今後も色んな本を読んで、感想を書いていきたく思います.
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました.

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