悲しみを受け入れたい
目を通していただくだけでもありがたいのに、スキしていただけることにとても感動しています。私を見つけてくれて、ありがとうございます。遅ればせながら、みなさまにとりまして今年が素敵な一年になりますように。
昨年は大変な一年でしたね。誰にとっても妙な一年であったという、悲しくもそんな感覚を世界で共有することとなった、歴史的な一年。そんな中我が家、クリスマスにボイラー故障でお湯が出なくなること4日間。お風呂もシャワーもダメだし、暖房もつかない。やっと解放されて正月だ!と思ったら、大みそかからまた同じ状態に。
さて、年末を共に過ごしてくれたのは、あの超人気漫画「鬼滅の刃」でした。少し遅れているのは、居住地域の地理的要素を含んでいるとご理解いただけると嬉しいです。話を戻します。で、私は漫画にそんなに興味ないんだけど、オンライン井戸端会議で友人から絶対読まなければいかん!と背中を押してもらったこともあって、電子版を全巻購入。
読み始めたらはまりました。これまでも「進撃の巨人」とか、「ゴールデンカムイ」とか、熱心な友人にすすめられて読んだものの、その時は入り込めなくて投げ出しました。これ、ディスってるのではありませんよ。その時私には「余裕」ってやつがなかったのです。漫画読む「余裕」すらないって、今思えば結構ヤバいですね。
「鬼滅の刃」は面白かったし、感動したし、よい漫画だと思いました。煉獄さんの言葉とか何度も読みなおしましたし。お気に入りの場面をスクショして時々見直してます。今も思い出すだけで涙しちゃうようなシーンの数々…。
全体を通していいと思ったのは、鬼にも人間だったころがある部分です。人間だった時の悲しい体験が原因で鬼になって生きることを選択した鬼たち。じゃあ、鬼殺隊は順風満帆かというと、そんなことはなく。鬼たちと変わらない悲しい過去を抱えています。ようは鬼になるか鬼殺隊になるかは、結局紙一重ということ。
この、紙一重が一体どう作用して彼らは鬼殺隊になったんだろう、または鬼になってしまったんだろうとしばし考えていました。今もまだ読んでいるのですが、それに答えを与えてくれたのがこの本。
※上巻を張り付けてしまいましたが、書いてあったのは下巻です。
彼らの間にあった紙一重って、「悲しみ」なのか「怒り」なのかの差なのではと、この名著を読んで思い至りました。著者によると、悲しみとは愛情と同じくらい尊くそして素晴らしい感情なのだそうです。悲しみと向き合い、受け入れることで人は大きく成長する、と。
私は、悲しみというのはネガティブな感情だと思って生きてきました。だから、その悲しみを感じた時、急いで蓋をして別のことを考えるか、もしくは悲しみを原動力に使うようにしていました。それによって生み出されたのは「怒り」。どうして悲しまなきゃいけない羽目になったのか、なぜ私を悲しませるのか…。これって、鬼が人間だった時のことを思い出しているときそのものだと思ったのです。ところが、鬼殺隊は(怒りも多少はあるんですが)悲しみそのものを受け入れて、そのものを原動力にしているように思うんです。悲しむということがどういうことなのかを分かっているから、誰かを悲しませたくない。悲しむという感情を味わい尽くしたが故、悲しみは深い思考を彼らにもたらしたのではないかと思うのです。だから、鬼たちは悲しみを受け入れず、感情を怒りに変えて他の誰かをさらに悲しませることで悲しみから逃げてきたのでは、と。そして、悲しみと向き合った炭次郎は、自分が倒した鬼の最後に慈悲の心で寄り添うことすらできていた、と。
すべてではなかったですが、悲しみを受け入れて消えてゆく鬼もいました。なんてやつだ!と憤りを感じた鬼だったのですが、その最後の姿に悲しみを共有し、私も涙してしまいました。
ナポレオン・ヒルのこの名著と、鬼滅の刃が自分の中でこんな風にリンクするとは思いませんでしたが、意外にも楽しく、興味深い発見となりました。
悲しみと向き合う、悲しいと思っている自分を見つめて抱きしめて「そうだね、悲しいよね。とても悲しいね」って今までしてこなかったから、すぐにはできないかもしれないし、その前に悲しんでいる自分を感じることすらすぐにはできないかもしれませんが、これができるような人になりたいな、とそう思いました。
読んでくださって、ありがとうございました。
素晴らしい一日になりますように。
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