中学校の国語の授業 説明文編⑤ 「データ」「理由づけ」の蓋然性
生徒たちは、「理由づけ」の存在を認識し、さらに日常生活における「理由づけ」は『数学科の「理由づけ」となる公理・定理のようなものではなく筆者の個人的な見解に過ぎないもの(社会一般の常識ではないようなもの)』が位置づけられる場合もある(この場合は「理由づけ」を省略することはできない)ということが理解できたことになります。
次に、もうひとつの数学の証明との違いに気づかせていきます。それは論証の前提となる「データ」と「理由づけ」の蓋然性についてです。
数学における「データ」は「二つの三角形は二辺とその間の角が等しい」というように必然的(存在を目の前に具体的に示せるようなもの)です。それに対して国語科の教材文の「データ」は「森林破壊により文明が崩壊したのはイースター島である」のように必然的ではありません。日常生活においては筆者の考えのようなものが位置づけられますから、それは蓋然的(確実にそうであるかどうかはわからない)なものであると言えます。
このように「データ」(「理由づけ」も含め)が蓋然的であると、そこから導き出される「主張」も蓋然的になってしまいます。ですから、国語科の教材文(この場合は評論)のような社会や文化、日常生活について論証する表現においては「データ」や「主張」の蓋然性を高めていく必要があるのです。
では、どのようにしたら数学科のように「データ」や「理由づけ」の蓋然性を高め必然的なものに近づけていけるのでしょうか。
本マガジン①において、日常生活における一般的な論証の構造を示しました。ここでは日常生活において意見や主張を表現するためには、「演繹的な推論」が基盤となるものと位置づけています。そして、日常生活においては「演繹的な推論」の構成要素である「データ」「理由づけ」が蓋然的になるため「帰納的な推論」を組み合わせていくことが基本であると示しています。
つまり、『モアイは語る』においても「データ」と「理由づけ」が蓋然的ですので、その根拠となるものが位置づけられているということになります。「それは何か」ということを考えさせていくことになります。