「あさ野球」
(3,978字)
草野球を始めた。
野球を本格的にやっていたのは高校時代までのことで、大学では比較的ゆるい運動サークルに入った。社会人になってから数年。接待があったり、何かと理由をつけて家で酒を煽ったりして、休日は午後まで寝ている。そんな日々を過ごしていると、体型が気になってきた。
インターネットで調べれば、すぐに近所の草野球チームが出てくる。便利な世の中だ。画面の一番上に表示されたチームにメール一通で入会を申し込んだが、いきなり練習に飛び込んで後悔した。
参加する前は、体が鈍っているのでチームの練習についていけないのでは、と心配していたが、取り越し苦労だった。少子高齢化、過疎化の進む地方都市だ。草野球チームも例に漏れない。一番若いのは俺で、次に若いメンバーは四十代前半。だが、その人は練習のある週末には家族サービスのため中々来られず、主力選手は五十代から七十代で、最高齢はなんと八十五歳。
若くて体力がある、という理由だけですぐレギュラー入りできたのは嬉しかったし、年下だからと、とんでもない量の雑用を押し付けられることもない
居心地が良くて続けているが、ただ一つだけ、不満があった。
目覚ましが鳴った瞬間に止める。
放っておくと、アパートの壁がどんと叩かれるので注意が必要だ。何も隣人が短気な訳ではない。目覚ましが鳴りだしたのが午前四時丁度だからだ。
釣りに行く訳でもないのに。草野球に行くだけなのに。
午前四時すぎに跳ね起きて顔を洗い、ユニホームに着替え、ゼリー飲料を吸いながら四時二十分に部屋を飛び出す。そうすれば午前四時半、集合時間ぎりぎりに河川敷に到着する。
年を取ると早寝早起きになると聞いたことがあるが、まさかここまでとは。
チームに入った頃はまだ良かった。
午前八時集合だったので、出勤する日と同じ時間に起きればよかった。最高齢の茂さんが「八時まで暇で、つい早めに練習場に来てしまう」と言い出して七時、六時半、六時と集合時間が段階的に早まった時も、部活の朝練や合宿を思い出して懐かしさすら覚えた。しかも、ほとんどのメンバーが早々に体力の限界を迎え、昼前、いや、朝飯前には練習が終わってしまう。ファミリーレストランで先輩方に食事を奢ってもらった後は帰って二度寝をしてもいい。いつもは溜めがちな洗濯や掃除をまとめてしてもいい。充実した休日を送ることができる。
だが。
それより前の時間帯は未知の領域、俺にとってはむしろ、夜更かしをしたタイミングでしか目にしない時間帯だった。
午前四時半。チームメイトたちは体の節々をさすりながら、それでもどこか嬉しそうに集まってくる。俺はこみ上げてくる欠伸を必死に抑えながらついて行くしかなかった。
「霧がかかっとるなあ」
眠い目を擦りながら、先輩たちが相談する声を聞く。確かに、明るくなり始めた河川敷は靄に包まれている。ベンチの傍から眺めると外野が見えない。これでは練習にならないだろう。
折角早起きして来たのにな。
「まあ、ぼちぼちやりましょうや」
「ではいつも通りに」
「えっ」
俺の驚いた声は、先輩たちのスパイクのざっざっという音にかき消された。話している間にも靄は濃くなってきていたのに、一体何を考えているのだろう。
ウォームアップではまだお互いの輪郭を捉えていたが、ノック練習のため外野につくと、いよいよバッターボックスが見えない。
「行くぞー」
掛け声と共に、きんとバットで叩く音がして、真っ白な霧の中から硬球が飛んできた。
「うわっ」
咄嗟にグローブを伸ばしたが、ボールは既に背後に落ちている。
「おい何やってんだよー」
いや、ボールの軌道も見えない中で練習するのは無理があるだろ。と、先輩に対しては言えない。
「すんませえん」
どこにいるのか分からない相手に向かって叫んだ。どうやら俺一人がボールを取りこぼしたところで進行に支障はないらしく、かきんとボールが当たる音、小気味良くキャッチするぱしっという音が連続して聞こえてくる。
「いや、嘘だろ…」
霧が立ち込めて、若者の俺ですらボールを取り損なうというのに。いつもならレフトの勝さんもライトの四郎さんも、少しでも軌道が逸れるとボールが落ちるのに間に合わなくなる。必ずセンターの俺がカバーするのに、今日はなぜだか、キャッチする音が左右から聞こえてくる。
一体何が起こっているのだろう。
と。
レフトの勝さんがスライディングをしてボールを取るのが視界の端に見えた。
それは目を疑う光景だった。
最近腰痛が悪化して休みがちだった勝さんが、激しい動きをするなんて。
慌てて助けようと駆け出したが、どうも様子がおかしい。勝さんはすぐさま体勢を立て直してボールを送っている。本来チームの中では恰幅の良い方である筈なのに、そのシルエットはほっそりしているし、ユニホームの色が違う。白地に赤のラインが入っている。俺たちのユニホームはグレーなのに。
何がどうなっている?
霧で方向が分からなくなっているうちに、隣のグランドから違うチームの人が迷い込んだのだろうか。
いや、朝の四時台から野球の練習をしているチームなど、絶対他にいない。
「勝さん…?」
恐る恐る呼びかけた先は、再び靄に包まれている。
「センター!」
遠くから響いた声に、俺の肩はびくついた。
今の声には覚えがある。
反射的に腕を伸ばすが、正面から飛んできたボールにあと三十センチ届かない。
俺は息を飲んだ。
着けているグローブが、着ているユニホームが草野球チームのものと違う。
高校時代のものだ。
冷水を浴びせかけられたような気分になった。鼓動がどくり、と大きな音をたてて響く。
「センター!」
先程と同じ声だ。高校時代、苦楽を共にしてきたキャッチャーの、鬼気迫る声だ。
頼むから俺のポジションを口にしないでくれ。ボールがこちらに飛んでくるだろうが。
腕を伸ばす。やはりボールは三十センチ先を掠める。
あの時と同じだ。
高校三年の七月、県大会の準々決勝で俺たちは敗れた。九回裏ツーアウトからの逆転負け。俺がボールを取り損ねたせいだった。
きまりが悪くて、慰めてくれる仲間とも口をきけなくなった。罪悪感に押し潰されそうになって、試合で負けた瞬間の悪夢を見続けた。
野球のやの字も見たくなかったのに、結局。
十年も経たずに、こんな場所に戻ってきてしまった。
これは呪いだ。野球という名の。
「センター!」
もう体が動かない。俺はボールを取り逃す。
腕を上げることすら諦めたその時、霧の中を走ってくる影があった。
レフトからだ。
彼は、俺の背後に落ちていったボールを生真面目に追いかけていって、とうとう拾い上げた。
俺が取れなかった白球を。
「ほれ」
何でもないように、軽く投げる仕草、少し垂れ目ののんびりした顔。まるで勝さんの若い頃のようだ。
だが。
目の前にいるのはきっと、勝さん自身なのだろう。
そして俺は、高校時代の俺だ。いや、もしかしたら俺はまだ夢の中にいて、今頃アパートでは目覚ましが鳴り続けているのかもしれないが。
しかし、こういうパターンの悪夢は初めてだ。
「悪夢かどうかは自分で決めるんだ」
勝さんが透明感のある声で言った。
「いけるか?」
その目は俺を真っすぐに捉えている。
悪夢かそうでないかは、俺がボールを取れるかどうかにかかっている訳だ。
「はい」
俺は勝さんに頷き返した。
「センター!」
また、同じ軌道でボールが飛んでくる。思わず目を瞑りそうになるが、堪えて手を伸ばす。グローブの先二十センチをボールがすり抜けていく。
「気にすんなー」
「一本集中」
霧の向こうから仲間の声が聞こえてくる。いつもより張りがあるが、馴染みがあるように感じる。毎週共に練習している先輩たちの声。
「センター!」
ボールが飛んでくる。嫌だ。何であの時手が届かなかったのだろう。届かなかったせいで、どれだけ長い間、暗い気持ちにさせられたことだろう。
あと十センチをボールは抜けていった。
「くっ」
右こぶしを握り締める。
俺にはできないのか。
「お前なら大丈夫だ!」
今度はライトの四郎さんに声を掛けられた。背筋の曲がっていない、若者の四郎さんだ。
「力抜いてけ」
「はい!」
俺は立ち上がって、ホームのほうを見据える。
きっと、他のチームメイトも野球での失敗はあるのだろう。高校の全国大会など、一校以外は全て敗者なのだ。失敗をしない者はいないに等しい。きっと、その時のトラウマを何年間も抱えたままでも、それでもまた野球を始めてしまうのだろう。
この呪いは何なんだ。
嫌な筈なのになぜだろう、こんなにも心地いい。
「センター!」
手を伸ばす。あと五センチ。
「センター!」
あと三センチ。何回もボールに飛びついて、とっくに息は上がっている。
もう失敗したくない。
だから俺のところに、早くボールをよこせ。
「センター!」
飛んできた白球を、俺は思い切り掴んだ。快音に左手がびりびりと痺れる。体中を熱いものが駆け巡った。
やった!と叫びそうになったが、今は試合中だった、そういえば。
すぐにボールを投げればアウトが取れて、俺たちは県大会の準決勝に進める!
肩が壊れてもいい。ありったけの力をこめる。
ボールが朝の霧を一直線に裂いた。抜けるような青空が広がっていく。
気がつくと、グランドをすっかり見渡せるようになっていた。朝日が昇ったのだ。
「よし、ノック練習終わり」
「えっ」
いつもと変わらない、草野球の練習風景だった。
今まで起こったことは一体。
呆然としていると、追い抜きざまに肩を叩かれた。恰幅の良い、グレーのユニホームを着た勝さんだった。
左手にはまだ、ボールを取った感触が残っている。俺は走りだして勝さんに追いついた。
朝、早起きして野球をするのは楽しい。
どんなに恥ずかしくなるようなプレーをしてしまっても、年を取って思うように体が動かなくなったとしても、やっぱり楽しいのだろう。
俺は勝さんと視線を合わせて、そっと笑いあった。
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