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合理的な判断が大切なようで、実は感覚を大事にしたい場面もありそう
最近合理的な判断が大切なようで、実は感覚を大事にしたい場面もありそうって思ったので、思ったことを書いてみます!
1 道理や論理にかなっているさま。「―な自然界の法則」
2 むだなく能率的であるさま。「―な処置」
合理的な説明や判断ってなんだか正しさを感じます。
合理的な説明を受けるとつっこみどころがない。その判断に何か違和感があっても「なんか違和感があるんですよね」と言ったところで相手を困らせてしまう。合理的な判断に対しては合理的なお伺いが必要に感じてしまう。
合理的な判断を追求するがあまり、「それはなぜ?」の応酬になって、雰囲気が悪くなることも…。そんな時は語尾に「へへっ」とつけて回答しましょう。
合理的な判断は物事を進めやすい気がしています。納得感があるというか確かに、と思わせるのに有効な手段に感じています。
それゆえ、自分が何かを説明するときにも、いかにも合理的に説明してしまいます。
でもたまに、合理的に言えばそうなんだけど、本当にそうなの?と思う時がありませんか。
そのような感覚や直感って、その人の過去の積み重ねで磨かれたセンスでもあると思うので、実はすごく合理的であると聞いたことがあります。ただし、その場でうまく説明できないときもある。
感覚としては違和感があるんだけど、いかにも合理的な判断に合わせてしまうことはありませんか。
人は合理的なんじゃなくて合理的を求めているだけかも
人間ってどのように物事を判断しているのでしょうか。
以下の記事では、「人間は必ずしも合理的ではないし、感情に左右された行動を取ってしまう時がある」といっています。
「感情に左右された行動を取ってしまう」と言えば、いわゆる自制心に欠けた行動を想像します。例えば飲み過ぎ、食べ過ぎなどの誘惑に負けること。
(僕はカイジを見たことがないのですが)、カイジがキンキンに冷えたビールを飲んで、「悪魔的だー!」と叫ぶのは、誘惑に負けた感じを示すのに「天使」ではなく「悪魔」と表現するのが適切だったのでは、なんて聞いたことがあります。ギャンプル自体が合理的に欠けた「悪魔」でもあるので、それにかかっているんだろうなと思います。
にもかかわらず、人は合理的な判断に従うのはなんでなんだろう。合理的かどうかは別として、合理的であってほしい、合理的であれば説明がつくから合理的を求めていることなのかもしれません。
どのスパンで合理的と判断するか
こんな記事も見つけました。
合理の反対をみんなはすぐ非合理だと言って、ちょっと変わったことみたいに言うんですが、より高い視野・より長い視点で考えると、実はすごく合理的なことが多くて。
自分のやっている意思決定が、短期の合理なのか、より大きい視点に立った時には実はこっちのほうがはるかに合理的だった、ということがあります。合理の先の「超合理」という視点を、一人ひとり持つことが大事なんじゃないかなと思います。
長期的にはAの選択をとった方が結果として合理的になるような気がするんだけど、確かに短期的にはBの選択肢の方が合理的だよね、みたいな場面に最近ぶつかりました。長期について全然説明できませんでした。
数値化はなかなか難しいんだけど、長期の目線で見たらこういう目線もあるよね、その上で短期の目線と長期の目線、今はどちらを大事にする?と会話をすることも大事なんだなと思います。
まとめ
人間は必ずしも合理的な判断をしているわけではないし、感情に左右されていることもある
けれども基本的には合理的を求めている(気がする)
合理的にもスパンがある(短期で合理的、長期で合理的)
合理的か非合理的か、どちらで考えると良いのかを場面ごとに選択しつつ、スパンもすり合わせることも必要なんだなと思うこの頃です。