不安棲エピデミック
カルト宗教、興味ありますか?
僕は、少しだけ興味があります。何に興味があるかって言うと、なぜ人は自分の作り上げた信念ではなく、非科学的で妄想じみた不思議な教えに縋るのか。それが理解できないからです。
例えば独裁国家に生まれて、独裁者を信じなければ殺される。それは不可抗力であるケースが多いので、仕方ありません。これは宗教二世なども近いでしょう。親が押し付けてきたから入らざるを得ない。それは、本人の意思とは関係ない物です。それを除いた、選択の権利があるのに自ら”足枷”を嵌める契約をするのは、不思議だな、と思います。自分ごと末代まで呪っているようなものです。不幸になりたい人間がいるのか?
ですが、”そういう物に縋らなければ生きていけない人が居る”のは分かります。ただ、どうしてそれに至るのか、それが分からないのです。
私も精神的に弱く、故にちょっとしたきっかけで無気力になり、何もしたくなくなることが頻繁にあります。不安も常に抱えています。
ですが、そういった無気力な時に重要で経験が足りない局面の決断は極力下さないように、そして人の言うことをあまり真に受けないようにしています。
自棄になったり、思考力の低下によりなんらかの損をしてしまう可能性が高いからです。
確かに悩みに対して論理的に向き合うためには幾ばくか、少なくない時間が必要であると考えています。だからと言って意識的に時間を作る必要はありません。何か別の、やるべきことをやりながらでもできる事です。悩みというのは、簡単に晴れないから厄介なのです。逆に言えば、頭から離れない。つまり、”例えば死んだらどうなるのか?”、"例えば集団ストーカーが実際についていたら?"これについてのアンサー、もとい解釈は、気になりだしさえすればいつか思いつく物だと思うのです。実際に答え合わせをするのはどうせ死んだ後になりますから、ひとまず自分の解釈を出し、より精度の高い予想が出来ればいいと思います。しかし、それで納得できない人の中でも騙されやすい人が、カルト宗教の教祖などといった見てもいないはずの世界を語る胡乱な人物の言うことを信じてしまうのでしょう。
ただし、純粋な気持ちでより良い生き方を説いたりする宗教については別に悪い事じゃない、とは思います。いえ、正確には…思っていました。
とにかく自分が縋れる信念があるのは良い物です。なぜなら、生き方というのが曖昧であると、少しばかり疲れるし、不安だからです。
そう考えると、自分の”神”をどこに持っているか、その違いしかないとも言えます。
数年前に読んだ、怖い話がありました。
”信念”は、培地である。
これは、その話に出てくる印象的なフレーズです。
内容は、「なんらかの精神的ダメージによって”雑菌”が入って、どんどん思考を食いつぶされてしまう。
代わりに獲得するのは狂気とカリスマ性。それを使って権力を手にし、決まってたくさんの人を殺す。
必ずそうである、とは思わないですが。
カリスマ性というのは、悪魔に魅入られた証拠かもしれない。と。
さて、カルト宗教の教祖が、元々ああいう人達だったのか?
あくまでも、同じ血が通った人間です。最初からそうだった、とは考えたくない、という希望的観測も入っているが、全員が全員そうだというわけじゃないだろうと。
例えば、幼少期に受けたトラウマがあったとか、そもそも権力を手にしたからおかしくなったとか。そういった、原因がある、と。
別に原因があったところで犯した罪は変わらないですが、単純にもしもを考えたりする時、漠然と「幸せなら、こうはならなかったんじゃないか。」と思います。
もちろん幼少期、裕福な暮らしをしていたアドルフ・ヒトラー。毛沢東。彼らは大きな挫折を経験しています。それになれなければ、できなければ厭だ、といった、人生をかけた信念。それが、崩れてしまっています。
自分の軸を失ったらそうなってしまうのかもしれません。たしかに、彼らは夢があり、それにすべてを賭けていました。それを失ってしまえば…いや、失うまでの不安に押しつぶされて、精神を病んでしまった。そういう見方もできます。
もちろん、だからと言って擁護するつもりは毛頭ないですが。
培地に菌が入り込み、その菌が増え、人の思考や行動原理を食いつぶし置換していく。」
恐ろしい事です。ですがこうも言っていました。
「しかし、実際に自力で信念を組み立てた人間は、恐らく培地の菌を排除する機能が備わっています。
なぜなら、考えた過程があるからです。それは、突然10を貰ってきた、結論のコピーをインストールしているのとはわけが違います。
1から10まで、しっかりと過程があり、もし少しでも書き換わっていたら気が付けるからです。」
じゃあ僕は人の意見もしっかり吟味し過程を以てインストールするので安心だな、と思った記憶があります。
この”怖い話”は、子供に読み聞かせような”教訓話”みたいなものだ、と思います。
例えば、サンタは良い子の所にしか来ないよ、とか。
例えば会社の幹部だったり、部下を使役する立場、そんな身近な物も含め、権力を持った時、悪魔の囁きに抗えるのか。
そのイメージトレーニングをさせるための、教訓話なのでしょう。
しかし、何かがおかしいんですよ、別に独裁者やカルト宗教の教祖だけじゃないと思うんです。
マルチ商法の元締めとかも極論そうだと思うんです、自分を信じる者を食い物にしている点は。
冷静に考えておかしいんですよ、もしかしたら、超能力なのかもな、と思います。まったくもって非科学的ですが。
ある程度自分の言ってる事がとんでもなくても他者を従わせられる能力、みたいな。
能力の出力によっていろいろ変わるってだけで。
シロガネBSは宗教を信じないと言っていました。僕もそうだろうなと思っていました。ですが、今ではなぜかこの前総裁が死んだカルト宗教を信じています。お金取られるだけでいい事なんてなんもない、はっきり言って一緒にバカにしてました。そんな風に。
彼も、自力で考えるのを良しとする性質でした。僕と同じで、考え抜かなければ気が済まない。そういう人間でした。
よりにもよって相反する意見を受け入れるなんて、不自然なんです。
なにを言ってるか分からないと思います、しかし、何かがおかしいのです。
いつか、僕も奇妙な心変わりをするんじゃないかと不安になります。
超能力って、在るんじゃないか?
在るような、気がしてきました。
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