失敗に対する考え方が変わってきた話
暑かった8月も気がつけば最終日になってしまいました。
今月も、良いことも悪いこともあれこれあった月でした。日々起きる様々なできごとを通じて、ふと自分自身が持つ「失敗との向き合い方」が以前と変わっていることに気付いたので、今日はそれについて書いてみたいと思います。
失敗と自分
失敗。できることなら避けたいものですよね。
私自身は、元々とにかく失敗を避けるタイプで、特にやったことないことをやる時はだいぶ慎重でした。人に影響を与えるものであればなおさら気を遣い、できれば摩擦を避けるために事前に可能な限りのシミュレーションをする。そのための準備にめちゃくちゃ時間をかけるのに、常に不安が残ったまま。覚えてる限り少なくとも中学生以降、つい最近まではそういう感じでした。
そんな私ですが、この半年ぐらいの間で「失敗」の定義の認識を改めまして、失敗を「避けるべきではない必要なもの」と受け入れ、認めることができるようになってきました。
この変化のきっかけは、オススメされて読んだいくつかの本です。そこに書かれていることを改めて自分に当てはめて考えたとき、いろんな学びにつながり、その上で簡単なエクササイズを実践してみたことが考え方の変化に繋がっています。
失敗かどうかを決められるのは自分だけ
自分にとって大きかった学びとして、まず、「失敗」は主観的なものであり、客観的なものではないが挙げられます。何かがうまくいかなかったときに、「これは失敗だった」とラベルを貼れるのは自分だけです。
これは無茶苦茶大事な気づきでした。他人の目を気にしがちな自分にとって、これまで「失敗した」と見られてしまうことに少なくない抵抗感がありました。
でも実際は、外の人がどれだけ褒めてくれていようが、自分が失敗だと思えば失敗であり、反対にもう諦めた方がいいよと諭されても、自分がそう思っていなければ、まだ失敗ではないのです。
つまり、目の前のできごとが失敗かどうかは完全に自分のコントロール下にあり、誰かに決められることではありません。失敗と見られること、は、そもそも恐れること自体意味がないのです。
失敗は最終的なゴールではなく、そこまでの道のりの間違いでしかない
また、何かに失敗したとしても、それは「そこまでの道のり」で生み出された結果がその時点で期待に反しただけということも認識を改めた部分でした。道自体はその先も続いており、時間軸を広げて見たとき、その失敗が新しい成功の道のりに繋がる可能性は大いにあります。
これは成功にも同じことが言えます。もし自分が大成功だ!と思ったタイミングがあったとしても、それはその時点でそこまでの道のりが成功であったと認識したということでしかありません。成功を得たとしても、そこにしがみつき続けることはできません。
翻って失敗も、その失敗はそれまでの道のりが失敗だったと認識したということでしかありません。失敗はその後いつまでも抱え続けるものではなく、そこで得た学びを教訓に変えることで、また新しい道のりを歩むことができます。
失敗に対する受け身の取り方を身につける
とはいえ、そういう話は頭では納得してても、日常の反応や判断を急に変えられるもんでもないですよね。
「失敗に対する許容は、ミスを重ねることでしか身につけられない」らしく、とにかく実践あるのみ、ということで、あえて小さいミスを受け入れることを繰り返して、失敗に対する受け身の取り方を練習していきます。
練習、というとハードル高く見えますが、難しいことは何もなくて、やることは自分の日々のミスを見つけて数えて振り返るだけです。
人間、ただ生活しているだけでも意外とたくさんの間違いやミスを重ねています。試しに、ある日自分が1日に何回ミスするかを数えてみました。「1日10回ぐらいはありそうだなー」と軽く考えていたら、家を出て会社に着くまでに10カウント使い切ってしまいました。
諸々の用事を済ませるために出社しようとしたら、準備に手間取り出遅れてしまう
外に出てから、携帯を持っていないことに気づき慌てて家に取りに戻る
まだ間に合いそうだ、と急いで駅に向かったけど間に合わなくて乗り遅れる
最終的に出社できたけど、目的だった用事を済ませるのに必要なものを家に全部忘れてくる
などなど。
こういうミスは起きるたび「あー失敗した!」と口から出たり、悔しい思いをしたり、テンションが下がりがちです。
そんな瞬間を意識的に捉えて、改めてよく見てみます。これらは実際のところ「失敗」とラベルを付けるべきものだったのか。実際には、一つも失敗とすべきものはありませんでした。
出遅れて急ぐことになったけど、電車には乗れている
携帯忘れてたけど、早めに気付いて取りに戻れている
乗りたかった電車には乗り遅れたけど、ミーティングなど特に間に合わせないといけない予定はなかった
用事は早めに済ませられたら楽だなぐらいの温度感で、最終的に必要だったのは数日後だった
こういう理解を重ねていくと、自分は普段のちょっとしたミス、失敗ではないことを「失敗した」と思って悔しがっていたことに気付きます。自省の念に駆られていたものの、結果的に問題は起きていないので、解決すべき課題がなくモヤッとした気持ちだけが残り自然と忘れるのを待つしかない状態を生み出していました。
さらに理解を重ねていくと、徐々に自分の反応に対する理解が進むと同時に、ミスは失敗ではなく分解して学ぶ機会だと捉えられるようになってきます。
ふとハインリッヒの法則を思い出したのですが、 1 件の重大事故が起こる手前には 29 の軽微な事故があり、その背景には 300 の小さな異常やケアレスミスがある、という法則を考えてみても、 1 の失敗以外はすべて気づきと学びの機会です。過去の自分は 300 もほぼすべて失敗と捉えていました。ナーバスすぎるわ。
そんな感じで、目の前の「ミス」は失敗ではなくて学ぶ機会だぞ、という体験を積み重ねて、自分の無意識的な失敗に対する恐怖心や不確実性に対する抑制を徐々に緩めていきました。
起きた失敗も教訓に変えることができる
先の話では結果的に急ぐ必要はなかったのですが、もし、実際に何らかの締切があってそれに間に合わなかったとしても、時間軸を広げて見たときに別の手段でリカバリーできているならば、それも 29 の軽微な事故の 1 つであって、最終的な失敗ではありません。
一方で、どうしても失敗のラベルを付けざるを得ないできごとが起きることもあります。目の前にめちゃくちゃでかい問題が転がった時、以前はなんとか避けようと別の簡単な解を求め、向き合うことを避けていました。その結果、同じ問題が今度はさらに大きく降りかかってくることにもなりました。
今月の自分は、そんな問題と向き合うことを避けたりはしませんでした。目の前で起きてしまった失敗の道のりに、きちんと向き合うことができるようになっていました。
どんなに大きい失敗に見えても、長期的に見れば未来の成功までの道のりの一部です。なので、失敗があったら真っ正面から向き合って学んで教訓を得ること。そうすれば、同じ失敗が大きくなって再び現れることはなくなるはずです。それまでは、失敗を避けたりしないこと。
そんな自分の考え方の変化を感じた8月でした。9月もよろしくお願いします。
この失敗に対する考え方は、主に以下の本から得たものです。興味があればぜひ。