02亜桜と朔人(6)
「もう別れたい」
そう告げたのは、亜桜の方からだった。朔人の家の前、蜩の声が響く門の下で。朔人はうつむきながらしばらく黙っていたけれど、
「わかった、亜桜が望むなら」
「望むなら?」
「別れても……いいよ」
朔人はうつむいたままで言った。
――どうしてそんなに淡々と答えられるの?朔人はずっと、出会った時からずっと、私のことだけ見ていたよね? それともこの2年間の想いも全部ウソだったの?
亜桜の目にうっすらと涙が浮かんできた。
「朔人は、もう私のこと好きじゃないの?」
小さな声で訊くと、朔人はびっくりした顔で亜桜を見つめた。
「好きだよ。ずっと好きだよ。でも、そう言ったところで亜桜はもう戻ってこないんでしょ。僕から、自由になりたいってことなんでしょう?」
朔人は泣いていた。亜桜は、彼の質問には答えず、黙って門の下から出た。朔人が、言葉にならない声を出そうとしていたけれど、亜桜は振り返らず、歩いて歩いて、歩いた。今度こそ、きっともう話すこともない。
「ちょっと、遅いよ」
亜桜はつぶやいて、茜さす道を、自分の影を目印にして歩いた。
*
「亜桜とはそんなこともあったよね、高校のころは」
緩和ケア外来の診察室で朔人は、カルテ・タブレットの操作をしている亜桜の横顔に話しかけてくる。
「望月先生でしょ、金沢さん」
「ちょっとくらい思い出話をしてもいいじゃないですか、センセ」
その薄い唇が少し緩むのを横目に見て、亜桜はイラっとする。
「あのね、ここでは患者さんと担当医って関係なの。わかるでしょ」
「冷たいね。幼馴染ってウソついたの黙っててあげたのに」
「あら、幼馴染っていうのは本当でしょ」
「いや違うよ。幼馴染っていうのはもっと……幼稚園とか小学校からの仲良しって意味でしょ」
「私から見たら、出会った時のあなたなんて小学生みたいなものだったわよ」
亜桜がカルテ・タブレットを眺めながら冷たく言い放つと、朔人はむくれた。
「じゃあ今度、ご飯食べにでも行こうよ。奢るから」
「めげないのね。でも、無理に決まってるでしょ。あんまりしつこいと、本当に担当外れるわよ。余計なことはいいから、水原先生からどんな話を言われたかを教えてよ」
カルテ・タブレットから目を離し、亜桜は朔人を睨みつける。予約外来は今日で3回目。カルテには、「1種類目の化学療法の効果に乏しい。次回から2種類目の治療に移行を要する」という水原の記録が残されていた。
「体調は大丈夫なの?」
「うん、今のところはつらい症状はないけど……。ちょっと食欲がないかな」
――さっき「ご飯食べに行こう」って言った口で言うのね。
「ええと、痛みは?」
「全然ないよ」
「OK。じゃあ、栄養状態はこちらでもモニターするわ。必要だったら栄養士さんにもサポート依頼するから」
「はい。頼りにしています」
「私もだけど、診断用AIもね。データをインプットしておくから、自宅でもモニターの結果がわかるようになるわ。食事についても時々、AIからアドバイス飛ぶようにしておく。朔人のデバイスは……ウォッチ? 食事のデータも次の外来の時に見せてね。私たちも参考になるから、よろしく」
「ああ、気を付けるね」
亜桜はニコニコ笑っている朔人を見て、少し心配になる。まだ初診から3か月くらいしか経っていないのに、もう1種類目の化学療法が中止になるというのは、異例の速さだ。朔人は、今後の見通しについて水原ときちんと話せているのだろうか……。そして、そろそろ安楽死のことについて話をしていかないとならないな、と亜桜は思った。
朔人のパーソナルAIと接続している、診断用AIの判定はずっと「レッド」。血液検査などの医療データ、体重などの身体情報や日々の行動パターンなどについては、AIフォンやAIウォッチ(腕時計)などにインストールされているパーソナルAIが日々情報収集しており、病院で診断用AIと連結することで、この1か月以内の安楽死が妥当かどうかを判定する。この判定が「イエロー」そして「ブルー」にならなければ、安楽死の施行は原則としてできないとされていた。
亜桜がこれまでのAI判定を見て、油断していたことは事実だ。こんなに早く進行するとは思っていなかった。次の外来の時には、こちらから話を切り出そう……と考えながら、朔人の予約を1か月後に入れた。
「寒くなってきたから、風邪とか気を付けてね」
「ありがとう亜桜。また来月ね」
「望月先生だって……、まあいいわ。またね」
診察室のドアがカタリと閉まるのを確かめて、亜桜は白衣のポケットから古びたシルバーの蛇のキーホルダーを取り出した。亜桜は手のひらでそれをじっと眺め、そして鍵束がじゃらんと音を立てるのを聞きながらまたポケットに戻した。
国家認定緩和医・望月亜桜。まだその手で安楽死を施行したことはない。
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