06足るを知る(2)
「塩村さん、どうぞー」
水原が診察室のドアを開けると、車いすに乗った塩村と娘が、緊張した面持ちで入ってくる。
「おはようございます。私、内科の水原といいます。塩村さん、今日は前の病院の先生からご紹介で来ていただきましたね。こちらのお手紙に書いてあることは拝見したのですが、念のため確認の意味で、今日どうしてこちらに行くように説明されているか、お話しいただいてよろしいですか?」
水原が塩村に向き合って、ゆっくりと話しかけたが、塩村はその顔をじーっと眺めるだけで返事をしない。
「ちょっと、お父さん。先生が聞いているでしょ」
「は? ああ……」
娘に肩を軽く叩かれて、塩村は娘の顔と水原の顔を交互に見る。水原はずっと、ニコニコと笑顔だ。
「塩村さんは、ご自身の病気のことを何てお聞きになっていますか?」
「病気……。私には病気はありません。元気です」
水原はチラッと娘を見るが、困った顔をしてうつむいてしまった。
「そうかあ、塩村さんはお元気なんですね。それは良かったです」
「ええ。じゃあ帰っていいですか」
「うんー、まあもうちょっとだけ、お話聞かせてほしいのですが」
「何でしょう」
「塩村さんは、これからどんな生活をしていきたいですか?」
「生活……?」
「ええ、どんな暮らしができたらいいなーっていう」
「ああ、暮らし……ええと、そうですね、あー今と同じ……今と同じがいいです」
「なるほど、今と同じ生活を続けたいということですね」
水原は笑顔のまま、塩村の目を見て話し続ける。
「じゃあね、もし、もしもですよ。塩村さんが何か、命に関わるような不治の病にかかったとき、例え苦しくても少しでも長生きできるような治療をしたいか、それとも苦しくない治療を優先して体力を温存するか、どちらがいいですか?」
「ああ、長生きしたいですねえ……」
「長生きしたい……例え苦しい治療だとしても、頑張ってチャレンジしてみようということですか」
「ええ」
水原は、「うーん」と唸って少し考え、娘の方に向き直って何かを言いかけた。しかし塩村の言葉がその会話の出鼻をくじいた。
「あー、やっぱり苦しくない方がいいな!」
「そうですか? でもさっきは苦しくても長生きできた方がいいって」
「うん、でも……やっぱり苦しくない方がいい」
「そうですか、わかりました」
水原は、うんうんと頷き、改めて娘の表情を見た。目にうっすらと涙をためて、その父を見ていた彼女は、水原の視線に気が付くと軽く頷いた。
「では、ご本人の意志に従って、これからは体力を温存して苦しくない治療をしていくということで診ていきましょう。そういうことなら、こちらの望月先生が専門的に診療してくれるので、安心ですよ」
「へっ……。私ですか……?」
見学だけのつもりだったのが、突然の患者紹介になって亜桜は軽く飛び上がった。善意で診察見学を了解してくれたのかと思いきや、ちゃっかりと利用してくるあたり、水原は本当に抜け目がない。
「ああ、先生が……。父をよろしくお願いします」
娘が深く頭を下げるので、亜桜もつられて礼をし「よろしくお願いします」と答えた。答えざるを得なかった。
「亜桜ちゃん、ありがとうねー」
塩村たちが診察室から去ったところで、水原は手を合わせて亜桜の方を向いた。少し演技がかった仕草がかわいらしく、頭の中で回していた恨み言もどこかへ消えてしまった。
「いえ、こちらこそありがとうございました」
「参考になったかしら?」
「はい。本人が病気のことを忘れているときに、また悪い情報を伝えないとならない場合、どうするのかな……と思っていたのですが。『がん』とか『抗がん剤』とかの言葉を使わなくても、方針を本人と相談していくことは可能なんですね」
亜桜の言葉に、水原がニコニコ笑う。
「そうね。必要があれば、もう一度病気のことも説明しようと思っていたけど。でも、『あなたはがんで余命いくばくもない』みたいな情報を、何度も何度も伝えられるのもどうかな……とも思うのね。病気のことは忘れてしまっても、病院で嫌な思いをしたっていう感情だけは残るかもしれないでしょ」
「そうですね……。私、何でもすべて、真実を伝えることが患者にとってベストだって信じていたんですけど、そうとは限らないかもしれないんですね」
水原は「うーん」と首をかしげる。
「難しいけどね。真実を伝えるのは原則よ。ただ、その前にまず知らないとならないのは、本人の目指す生き方だと私は思うの。それを知れば、真実っていう劇薬をそのまま患者に飲ませるのではなく、もう少しマイルドに調合して同じゴールを目指すことだって可能じゃないかなって思うのよ」
「なるほど……真実っていう劇薬、ですか」
「今日だって私、塩村さんが『長く生きたい』っておっしゃった時点で、抗がん剤をどうすれば塩村さんにできるか、ってことに頭を切り替えたわ。若い人なら、半分の方を寛解までもっていける治療よ。いくら高齢でも、認知症があっても、本人が副作用のリスクも負う覚悟があるなら、医者だって腹を括らないと」
いつになく凄みのある雰囲気の水原の空気に、亜桜は息を呑む。
「まあ、父の時代だったらあり得ないことだったかもだけど」
「父? 水原先生のお父様ですか」
「ええ、私の父も医者だったのよ。言ってなかったっけ? 外科医でね。それで、父が現役だったころは、外科医が手術もしながら抗がん剤もやっていたんだって。すごいよね! でも、その時代はろくな薬がなくって、ほぼ100%の患者が1年とか2年とかで亡くなっていたそうよ。いまは抗がん剤だけでも半分くらいの患者さんを助けられるのよ、って父に言ったら、すごい時代になったな、って驚いていた」
水原がプライベートの話をするのは珍しい。
「この10年くらいでまた一気に治療体系が変わりましたよね。私も知識だけはつけようと勉強してましたけど、だいぶついていけなくなってきました」
水原は、うんうんと頷いたが、急に眉をひそめて声の調子を落とす。
「でもね、昔に比べれば確かにそうなんだけど、残りの5割に入った人にとっては昔と何が違うんだろう、って思うの。もちろん、寛解に入らなくても5年、10年って生きられる人もいる。でも一方で、全く効果が出なくって1年もたないひとだっている。そのそれぞれの人に人生があるわけよね。だとしたら、私たちだけが喜んでいても、そこにはギャップがあるってことも知っておかないとね」
「は、はあ……?」
水原がなぜ突然そんな話を始めたのか、意図がつかめずに亜桜は困惑した。しかし、その疑問は水原の次の言葉で解消した。
「あの、金沢さん。わかるでしょ。彼ね、2つ目の治療も効かなくなった」
「えっ……」
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