04運野、吼える(3)
その日の夕方、亜桜がナースステーションに残ってカルテを書いていると、準夜勤で出勤してきた赤垣が話しかけてきた。
「亜桜先生、聞きましたよ~。なんか朝から大変だったんですって?」
「あー、凪さん……。大変も大変。いろいろあってさ……」
亜桜はカルテを書く手を止め、ことの顛末を話す。
「あーなるほど……。運野先生がそこまで言うなんて珍しいですね。でも私は、亜桜先生の味方です!」
「ははは、ありがとうね。でもね、運野先生が言っていたことにも一理はあると思うんだ」
「えー、亜桜先生も眠らせた方が良かった、って思うんですか?」
「いやー……。それは今でもそうは思っていないけど。でもね、吉塚さんを家に帰れなくしたことは事実だし、そのことで吉塚さんが今後、死にたいくらいの絶望を味わうかもしれない、なんてことを考えもしなかったの。実際にそうなるかどうかとか、そうなったときにその絶望にどう対処していくか、ということとは話が別よ。『考えもしなかった』ということは反省しないといけないと思うのよ」
赤垣は黙って聞いている。
「私は、内科とか救急とかの研修を経て、緩和ケアの道に入ったわ。だから、その頃の思考のクセとか、慣習が残っているのかもしれない。そんなので治療されるのって、患者さんにとってはエゴの押し付けにしかならないと思う」
「じゃあ、もしですよ。朝の時点で、『今ここで管を入れたら、吉塚さんが今後絶望に落ちてしまうかもしれない』って考えがあったとしたら、亜桜先生は管を入れるのを止めましたか?」
亜桜は少し考えて、首を振る。
「いやー……。それでもやったでしょうね」
「どうしてですか?」
「だって、彼は『生きたがってる』って感じたんだもの。それも私のエゴかもしれないけど……」
「先生お得意の『空気』ってやつで感じたんですか?」
「あー……、そうかな? そうかもしれない」
「ふーん……。でもきっと、亜桜先生の感じ、合ってると思いますよ。私もこれまで吉塚さんとお話してて、あそこで本心から『眠らせてほしい』って言う人ではないと思いますもん。そういう意志の人じゃない。だから私は、亜桜先生の味方です!」
本日2回目の「味方です」が飛び出して、赤垣は満面の笑みで亜桜を励ました。
「ありがとう、凪さん。でも、吉塚さんはこれからね。運野先生がおっしゃったように、私が責任をとらなきゃ」
「私たち、ですよ。亜桜先生」
赤垣が笑顔で背中をポンと叩いてくれた。その手が温かかった。
「ああ、そうだね。頼りにしてる」
亜桜もくすりと笑ってと頭を下げた。
管が入ってから、吉塚の症状は一時的に安定した。管を脱気装置につないで空気を抜き続けている限り、肺がしぼむことはない。しかし一方で、膨らみきることもなかった。肺に開いた穴が大きすぎるのと、もともとヘビースモーカーで肺が固くなっている影響で、管から最大出力で脱気してようやくギリギリ。この場合、肺の穴をふさぐ手術をするしかないのだが、吉塚の体力や病状では、手術を行う選択肢は最初から無かった。亜桜は運野に「2~3週間すれば管は抜けます」と言ったが、その見込みすら甘かったことに今さらながら気づかされた。
吉塚は次第に体力も低下し、呼吸苦も再び出現するようになった。気胸のことだけではなく、がんそのものも急速に悪化していた。
「吉塚さんが、『俺は今日もまだ生きているのか』、っておっしゃるんです……」
ある看護師が悲痛な表情で報告をしてきた。
「望月先生、私たちが何かしてあげられることはないでしょうか。毎朝、ああやって言われるのを、ただ見ているだけというのはつらいです」
看護師は目に涙をためて、亜桜に訴えた。亜桜も困り果て、「今からでも制度下安楽死の手続きを始めましょうか」という言葉が喉元まで出かかった。それを言って、どうなる。それに、仮に国家認定緩和医であったとしても、他人に対して「安楽死制度を使ってみませんか」と教唆することは「患者の権利法」の中で明確に禁止されていた。他人によって安楽死に追い込まれることを防ぐためである。でも、もしかしたら「そういった制度がある」と伝えるだけでも、吉塚にとっては希望を与えられたように感じたりしないものだろうか。
「吉塚さん、今日はいかがでしょうか」
朝の回診で亜桜はベッドサイドに座り、ゆっくりと話しかける。
「ああ、今朝はいつもより少し楽かな。ありがとう」
吉塚は笑顔を作って答えたが、少し動けばゼイゼイという喘鳴が聞こえる。
「ちょっと、病状のことについてお話させていただいてもいいですか」
亜桜はゆっくりと切り出した。
もう管が抜けて自宅に戻れることは厳しくなったこと、がんそのものも悪化してきていること、残された時間が短くなってきていることなどを話した。
「……という状況なのですが、今の話を聞いて吉塚さんはどう思われましたか」
吉塚は「そうですか」と言ったきり、天井を見つめて表情すら変えない。
「吉塚さんは、どうしてそんなにご自宅に帰りたかったのですか」
「そりゃあ、家の方が楽ですからね。ここにいればみんなが良くしてくれるし、看護師さんも先生も近くにいるから何かあっても安心だけど、そうは言っても病院は病院だからね」
「……そうですよね」
「パーソナルAIでもね、『いま家で過ごせる可能性は5%以下』って出てたから、まあ戻るのは無理かなって覚悟はしていたけどね」
吉塚は手にしたAIフォンを軽く振りながら、寂しそうに笑った。
「あとは、孫がなあ……」
「お孫さん?」
「ええ、実は娘が先日子供を産みまして。自宅に戻ったら、見せに連れてきてくれるって約束をしていたんです」
「それは……、申し訳ございません」
「なんで先生が謝るんですか?」
「いえ、気胸が起きた朝、私は咄嗟の判断でほぼ強制的にこの管を吉塚さんに入れました。吉塚さんがご自宅に帰りたいとおっしゃっていたことを知りながらです。でも、その後で上司の先生に叱られたんです。管を入れた後、結局吉塚さんがご自宅に戻れる道を、私は見つけられなかった。管を入れた後のことまで考えていなかったんです。結果的に、吉塚さんを長く苦しめることになっているのではないかと……」
そう言って、亜桜は頭を下げた。こんなことを言っても自己満足に過ぎないことはわかっている。責任を取る、というのはこういうことじゃないとも思う。それでも亜桜は、取り繕わずに正直な気持ちを話した方がいいと思った。
※お話を一気に読みたい人、更新されたら通知が欲しい人は、こちらから無料マガジン『褐色の蛇』をフォローしてね↓