08その瓶は死を待っているのか(5)
救急室に、鉄のような臭いが充満する。
鮮血が床に飛び散り、亜桜のスラックスを濡らす。
――何度経験しても、嫌な臭い。
父が倒れていた時の光景が頭に浮かんだが、亜桜はその映像をすぐに消した。
「バルーン・チューブ入れるよ。緊急止血して、内視鏡室へ! 静脈ルート確保と、採血よろしく」
亜桜は、急いで指示を出すと、患者の鼻からチューブを挿入して出血部位でバルーンを膨らませて止血した。
「加藤さん! ちょっと苦しいけど、すぐに楽にするからね!」
そう、搬送されてきたのは先月緩和ケア病棟を退院した加藤洋二だった。退院してからは結城歩美の家でのんびり過ごせていたのだが、今朝「なんか気持ちが悪いんだ」といって起きてきた後、トイレで大量に吐血し意識を失ったとのことだった。
血圧70/50、脈拍110。緊急採血で出たヘモグロビンは7.8だったが、まだ下がるだろう。点滴を全開で投与して内視鏡室へ運ぶ。
看護師が準備をしている間、内視鏡室で待機していた医師・庄野は、亜桜をバックヤードへ呼び出した。
「本当に、あんな状態の悪い患者の内視鏡するのか?だって、がんの終末期で安楽死希望も出てる患者だろう。無理せずに逝かせてやるって方がいいんじゃないのか」
「いえ、確かに状態は悪いですし、もしここで止血してもらってもおそらく1か月後には亡くなる可能性が高いです。でも、でもまだ話し足りないことがあるんです。庄野先生、お願いします。先生にしかお願いできないんです」
「いや、どうしてもやれって言われればやるけどさあ……。途中で何かあったとしても勘弁してくれよ」
庄野はしぶしぶ受け入れて内視鏡室へ戻ってくれた。セッティングは看護師たちの手によってもう終わっている。庄野は速やかに内視鏡を口から挿入し、それに合わせて亜桜はバルーン・チューブを抜いた。
「OK、ここからの出血だな。以前に硬化処理したところの脇から出ちまってる。ここも硬化させるしかないな……」
素早い手際で内視鏡先端からロボットアームを出し、出血点を圧迫すると同時に、食道壁に硬化剤を注入すると出血の勢いはみるみる弱くなった――が、まだ止まらない。
「ちっ、しつこいな。じゃあ、こっちもか?」
出血部位から少し離れたところに内視鏡の先端を移動し硬化剤を追加注入。出血はピタッと止まった。
「すごい……。すごいです庄野先生!」
亜桜が跳ね上がって喜ぶと、庄野はモニターを見つめたまま照れくさそうに微笑んだ。
「まあ、『先生だけが頼りです』なんて言われちゃ、いいとこも見せたくなるってものよ」
「加藤さん、もう大丈夫ですよ。このまま病棟に入院しましょう」
亜桜は加藤に顔を近づけ話しかけるも、加藤に反応はない。
「あー、今は聞こえないだろ。ちょっと処置が連続する可能性あったし、意識混濁して暴れそうだったから鎮静剤打ったんで」
「えっ、血圧大丈夫ですか?」
「考えてないわけないだろ。大丈夫な薬を選んださ」
「ありがとうございます! 先生マジでかっこいい……」
「あっははは。俺にパートナーがいなかったら、お礼にデートでも付き合ってもらいたいところだなあ」
庄野が内視鏡を加藤の口からするりと抜きながら鼻の下を伸ばしていると、介助についていた看護師が寄ってきてぼそりと呟く。
「あれ、庄野先生いいんですか」
「うわっ。冗談だよ冗談。お前ら、この部屋の外でめったなこというもんじゃねえぞ!」
着ていた防護衣を脱いで、庄野は早々に逃げていった。亜桜がきょとんとしていると、先ほどの看護師が寄ってきて、にこりと笑った。
「庄野先生のパートナーって院内の看護師ですからね。変な噂って広がるの早いですから。望月先生もご発言には気を付けた方がいいですよ」
「あはは、庄野先生がかっこ良かったのは本当なんだけどね。気を付けるよ。変な誤解で仕事しにくくなりたくないしね。でも今日は本当にありがとう! 助かったよ」
亜桜は看護師にぺこりとお辞儀をし、ベッドに乗せられた加藤と一緒に病棟へ向かった。
翌日には加藤は意識を取り戻し、話もできるようになった。しかし、今回の大出血も影響してガクッと体力が落ち、以前のような快活さはすっかり失われてしまった。
診断用AIの判定も「ブルー」。亜桜が受け持った患者で初めて、「安楽死実施可」の判定が出た瞬間だった。
「この前退院したあと、結城さんとはお話しできましたか」
入院から数日後の回診で亜桜は尋ねた。加藤は虚ろな顔を亜桜に向け、ややあってから「少しな」と答えた。
「結城さん、納得してくれました?」
「ああ……、いや、歩美は俺が死ぬことに反対なままだ」
「でも、加藤さんの気持ちは変わりませんか」
「……そうだな」
加藤はゆっくりと、窓の方に顔を向ける。
「わかりました。では、私の方では手続きを進めていきますね」
「……もう、止めないのかい亜桜ちゃん」
「ええ」
亜桜は加藤の顔を優しく見つめながら答える。
「そうかい。血を吐いて運ばれた日、亜桜ちゃんが一生懸命に俺を助けてくれただろう。てっきりまた、俺を生かし続けるつもりなのかと思ったぜ」
「それは、私がもう一度、加藤さんとお話ししたかったから。きっと、加藤さんもそうかなと思って」
亜桜がゆっくりと言うと、加藤は体を少し起こして、再び亜桜に顔を向けてニヤッと笑った。
「ははっ。とんでもないセンセイだ。話をしたいってだけで俺を生かしちゃったのかい。俺は早く死なせてもらいたかったぜ」
亜桜はニコニコしながら、加藤に視線を返した。加藤は口では亜桜を責めたが、本気で怒っていないことはまとっている空気でわかる。
「加藤さん。結城さんにも、もう一度私から話してみますね」
「そうか。頼む」
「もし、結城さんが納得してくれたとしたら、いつぐらいに安楽死をしたいとかありますか?」
「そうだな……じゃあ2週間後くらいかな」
「2週間後……。それまでに何かしておきたいことは」
加藤はしばらく考えていたが、不意に手をあげて猪口をもつ指を作った。
「……ダメかい?」
「お酒ですか? ううーん。お酒で血の巡りが良くなったら、また出血するようになるかもしれませんよ」
「もう、いいよ」
「そうですか。じゃあ、少しだけね。それも結城さんに話してみます」
「亜桜ちゃんどうした。急に物分かりが良くなったじゃねえか。もう俺が死ぬからってやけっぱちかい」
「そんなんじゃないです。でも、後悔したくないんです。いろいろと」
加藤はじーっと亜桜を見つめていたが、ベッドに体を倒し目をつむった。
「まあ、よろしく頼むわ」
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