#ずいずい随筆②信じられる「わたし」~大塚篤司『アトピーの治し方』を読んで
以前にとある読書会に参加していたとき、医者が執筆した課題本に対し
「こんな、『わたし』がいない本は、読んでいても面白くない」
という感想を述べている方がいた。その方が曰く、
「確かに書いてあることは正しい。参考にもなる。でも、書いている人の姿がどこにも見えないのよ」
ということだった。
僕ら医者は、いわゆる「専門職」だ。専門職の特徴は、これまでの研究やデータ、そして経験に裏付けされた客観的な事実を誰よりも知っているということだ。誰にとっても有益な情報を語り、多くの人の参考になることを願って発信しているだろう。
そこに「わたし」を入れることは一種のタブーでもある。なぜなら、主観はデータではないから。主観が入った瞬間に、その医療情報は怪しいものに早変わりする。だって、「データでは違うんですけど、僕の主観ではこっちの治療の方がいい気がするんですよね」とか言い始めたら、それはもうニセ医学の入り口だもの。常日頃そんなことを言っているのは、かなりヤバい医者認定でいい。
アトピーとがんを取り巻く状況は似ている
そこでこの『アトピーの治し方』。
著者の大塚先生には、実はまだお会いしたことがない。大塚先生が東京に来るときは、なぜか僕が大阪に行っていたり、逆に僕が京都に行った時には、大塚先生が海外に行っていたりする。
これはもう「西と大塚を会わせてはならない」という何らかの神の意思が働いているんだろうと思うレベルだ。きっと、二人が出会って手を合わせたら、伝説の武器とかが空から降りてくるんだろう。
著書を献本いただく、というお話を頂いたときに、正直僕はアトピーの専門家でもないし、身近にアトピーの方もいないし、どうして僕に?と恐縮だったが、せっかくの機会なので頂いて拝読することにした。
読んでいてすぐに、「大塚先生が僕に送ろうと思った理由」がわかった。
がんを取り巻く状況と、アトピーを取り巻く状況が、「うわ、めっちゃ見たことある」というくらい一致するのだ。
アトピーは治らない、と言われる。
がんも治らない、と言われる。
医者は常に偉そうで、初対面の患者に向かって「なんでこんなになるまで放っておいたの」と怒鳴る。医者ってナニサマなんでしょうかね。
そして、その医師への不信を背景に、ニセ医療が「僕はやさしい医者だよ」と言いながら近づいてくる。まあ、その医者も結局は「医者」なんですけどね・・・。
僕がこの本を読んでいて驚いたのは、大塚先生がまず患者への「謝罪」から入っているところだ。過去の自分が、「患者のために」と思って書いていたブログが、いかに無神経に多くの患者やその家族を傷つけ、結果的に「医師対患者」という対立構造をつくり、その溝を深めていったかが書かれている。僕は、その当時に大塚先生に送られてきたメールに書かれた、母子の苦悩に心を抉られる思いがした。その母子に気休めな返事を出したであろうことを謝罪する、大塚先生の真摯な姿勢に敬服する。
僕がこの本がいいな、と思うのは大塚先生という「わたし」が感じられるところだ。もちろんそれはニセ医学に入っていく「わたし」ではない。「ああ、この先生がおっしゃっていることだったら、確かに信じられるのだろう」と思わせてもらえる力が、言葉の端々から感じられる。
もうひとつ、この本が信じられるのだろうと思うのは、編集者の今野さんが自らもアトピーの患者として「どうしてもこういう本が欲しい。でも、ない。なら、自分で作るしかない」と、大塚先生に依頼し、せっかく出来上がった記事を全部ボツにして京都に駆けつけるほど、熱を入れてできあがった本だということだ。今野さんは、その思いを自らのブログで切々と語っている。
「どうか、この本を最初に読んでください」
と、本の表紙に大きく書かれている。この表記は、様々なアトピー本が本屋にあふれる中で、強いメッセージになるだろう。どうか、このメッセージを信じて本当に「最初に」手に取ってほしいと願いたい。そして、信頼できる皮膚科医を見つけて、今度こそ標準的な医療で、症状をコントロールできることを願っている。
それでもまた標準治療に絶望するようなことがあれば、それは僕たち医者全体の責任だ。僕らは少しでも、僕らを信じてもらえるよう努力する。それが、結果的に皆さんの幸せな生活を支えることにつながると信じて。
ここからの有料部分は、この本の中から「空気が読めない医者」(p38)の部分について、ちょっとした感想を書いてみたい。
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