03温泉と父と(2)
高校教師だった父・健治が病に倒れたのは、亜桜が朔人と別れてからしばらくした寒い日のことだった。
「今日も腹が痛いなあ……」
この1か月ほど、お腹をさすりながら健治は仕事に行っていた。
「そんなに長く痛いって変じゃない? 一度お医者さんに診てもらった方がいいよ」
母・貴子は玄関先で見送りながら、心配そうに促す。
「ああそうだな。でもな、痛くないときもあるんだよ。この胃薬も、よく効くって評判らしいぞ。ただ、今は中間試験の準備で忙しいからな……。それが一区切りついたら、休みを取って病院行こうかな。まあ大丈夫だろう、がはは」
貴子の心配をよそに、健治は結局のところ2か月近くその痛みを放置し、ついに食事もほとんど摂れなくなってしまった。
「お願いだから病院に行ってちょうだい」
市販の胃薬と痛み止めを大量に買い込んできた健治に、貴子は涙ながらに懇願した。そして「明日、クリニックの予約取ったよ」と話していたその日の夜、健治はトイレで大量に血を吐いて動けなくなってしまった。地獄絵図のようになっているトイレと、うめいている夫を前に、貴子は狼狽し震えて座り込んでしまった。貴子の悲鳴を聞いて、亜桜が階下に駆け下りたとき、真っ黒な血の海で蒼白になる父と、同じくらい真っ白な母の姿を見た。
「お母さん!救急車!」
亜桜が叫ぶと、貴子は我に返りすぐに電話へ手を伸ばした。
診断は、膵臓がん。膵臓の頭から少しずれたところにできた腫瘍とリンパ節が一塊になって大きくなり、胃の裏側を喰い破っていた。救急医による処置で、出血は何とか止まったものの、健治のがんは既に肝臓に転移しており、手術で切除することは難しかった。
「余命はおそらく半年はないでしょう。家族で悔いがないように過ごしてください」
主治医からの説明を受けたとき、貴子は真っ青になり、ただガタガタと震えていた。亜桜も母の手を握りながら、「これから私はどうなっちゃうんだろう」と思考が止まっていたが、一言も発しない母の横顔を見ているうちに、次第に肚が座ってきた。
「治療は……今後の治療はどのようになっていくのでしょうか」
亜桜は、医師の目を見つめながら言った。医師は亜桜の目を見返し、数秒の沈黙の後で「あのねえ」と言って亜桜に向き直った。
「娘さん。今の状態で治療というのは、ご本人に酷ですよ」
亜桜はかっとなった。こんな医者に舐められてたまるか。
「それは父に確認したことですか」
「いや、ご本人にはこれから説明します」
「父は頑張れます。頑張れる人です」
「ちょっと亜桜……」
今度は貴子が亜桜の手を握って焦っている。医師は、困ったなという顔をした。
「ご家族の気持ちはわかります。でも医学的に、無理はできないです」
「どうしたら、治療してもらえますか」
「え?」
「父が、どういう状態であれば治療をしてくれるのかと聞いています」
医師は、うーんと言って少し考え込んだ。
「このまま血が止まって、ご飯も食べられて、外来に通院できるようになったらかな」
「わかりました。ありがとうございます」
「いえ……、でもその状態になるかどうかは何とも……。いや、奥さん、しっかりした娘さんですね」
「いえ先生、本当に失礼申し上げて……」
貴子がペコペコと頭を下げる。
「大丈夫ですよ。まあ……わかりました。なるべくその状態にもっていけるよう、できる限りのことはします」
医師は、自信なさげな声で「任せてください」と言い、席を立った。貴子も立ち上がり「よろしくお願いします」と頭を下げていたが、亜桜は椅子に座ったまま、説明室を出ていく医師の背中を見つめていた。
病室は個室だった。本人や家族が頼んだわけではない。それだけ重症であったということだ。健治は、ベッドに横になり、点滴の管や心電図モニターなどでがんじがらめにされていたけれども、部屋に入ってきた亜桜を見つけると
「おう! 愛しの娘よ」
と、首だけを持ち上げ、いししと笑った。
「冗談じゃないわよ」
亜桜が神妙な顔でベッドサイドの椅子に座ると、健治も首を枕に戻し、天井を見た。
「お母さんは、どうした?」
「いま、書類の手続きに行ってる。お父さん、病気のこと先生に聞いた?」
「もちろん聞いたよ。膵臓のがんだってなあ。しかも手術も薬もできませんときた。いやあ、これは年貢の納め時が来たかな」
「だから、冗談じゃないって!」
亜桜が大きな声を出したので、健治はまた首を持ち上げて亜桜を見た。
「お、おう……すまん」
「……」
「泣いてるのか?」
「泣いてないわよ」
「そうか」
そう言って健治はまた首を枕に戻した。首だけ動かすというのは態勢がきついらしい。
「心配かけて、すまないなあ……。亜桜にも、お母さんにも」
「お父さん、治療もできずに死ぬって言われたんだよ」
健治は表情も変えることなく、天井を見つめて黙っていた。
「そうだな」
しばらくして一言だけ答えが返ってきた。
「悔しくないの。あんなこと言われて」
「悔しくないのって言ったってなあ。先生が悪いわけじゃないだろ」
「病院を変えるつもりないの」
亜桜が前のめりになって言葉を浴びせてくるので、健治はその勢いを削ぐようにニカッと笑った。その表情を見て、亜桜は浮き上がっていた腰を椅子に落ち着ける。いつもそうだ。恐そうな大人の医師に対してでも、あれだけ強気に発言できる亜桜も、父の前では一瞬で一人の女の子に戻されてしまう。亜桜の全身から飛び出していた棘が萎えていくのを確認して、健治はゆっくりと話し始める。
「亜桜が心配してくれる気持ちもわかるんだけどな。うーん……。照葉さんはうちから一番近いしなあ。もう数年したら北の方にばかでかい病院ができるっていうけど……。それに、お父さんはあの先生嫌いじゃないしな」
私は嫌いよ、と言いたかったが、父が信頼している医師を殊更にくさす必要もない。
「私がお父さんを治せたらいいのに」
「おっそうか? 亜桜がお医者さんになってくれたらお父さん安心だなあ」
「調子いいこと言って」
「でも、お前の成績ならどっかの医学部くらい入れるだろ」
「……そんなに簡単なものじゃないでしょ」
物理か生物系の大学に進もうと考えていた亜桜にとって、医学部進学なんて考えたこともなかった。
「がはは、まあそうだな。お父さんは日本史のことしかわからないけど、もし受験するつもりなら教えてやれるぞ」
「そうね。医学部受験には日本史あまり関係なさそうだけどね。でも……そのためには元気になってもらわないといけないわ」
「元気に……なるぞ?」
「医者がね、『ご飯も食べられて、外来に通院できるようになったら』治療をしてくれるって約束してくれたの」
「そうか」
「だからお父さん、頑張って」
「ああもちろん、頑張るさ」
健治は再び首をあげ、いししと笑った。
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