01国家認定緩和医(3)
日本で成立した安楽死制度の特徴は、「安楽死を望むものは、すべからく緩和ケアを受けることを必須とする」ことが明記されていることだ。安楽死制度を使うことを希望する患者に対して、主治医として緩和ケアを実施する医師は「国家認定緩和医」として資格化され、5年以上の緩和ケアへの従事経験と、国が定める1週間の宿泊研修および筆記試験を経て認定される。亜桜も、この国家試験を経て先日、国家認定緩和医として登録されたばかりだったのだ。
「気合い十分ってところか」と岩田に笑われるほど意気込んでいた亜桜だったが、実はこの資格、それほど気合の入った代物とはいえない。「5年以上の緩和ケアへの従事経験」とあるが、その細かい内容は明記されておらず、緩和ケア病棟や在宅ホスピスでの勤務経験がなくても、「自らの外来でモルヒネを出している患者が何人かいる」程度の状況でも認められるくらいだった。それくらい甘い状況だったので、亜桜のように「緩和ケア病棟や在宅医療でガチガチに緩和ケアを学びました」、などという医師はまれで、町中の開業医の中にも国家認定緩和医の資格を持っているものが川崎市だけでも何人もいた。これは、国が最初にこの制度を作ったとき、世論調査や国民投票の結果から、安楽死希望者が殺到することが容易に予想できたため、「とにかく早く制度を整えないと」という焦りから粗製濫造といってもいいザル制度になったとされている。それでも当初から、安楽死制度への抵抗感からか国家認定緩和医の応募者は少なく、いまだに人材不足に悩んでいるのが常だという。
そんな中、照葉総合病院はさすが「日本で初めて制度下安楽死を実行した病院」だけのことはあり、部長の岩田、その下についている運野、そして今年亜桜が資格を得たことで3名の資格者を擁する施設になった。川崎市内の病院における有資格者は、南部病院に2名、北部病院にいたってはゼロであり、照葉はこの病床規模としては全国的にも異例の病院であった。
しかし実際には、照葉に紹介されてくる患者のうち、安楽死を求めてくるものはそれほど多いわけではない。照葉総合病院緩和ケア病棟には年間300名ほどの患者が入院してくるが、そのうち最初から安楽死を求めてくる方は100名ほどに過ぎない。それ以外の方は、どのような最期を迎えるかにこだわりはない、苦しくさえなければいい、という考えである。さらに、その安楽死を求めてきた100名の方でも、入院後に適切な緩和ケアを受けることで最後まで制度を使用することなく死を迎えられる方も多い。最終的には、年間で20名ほどの方が制度下安楽死で亡くなられている、というのが現状だ。この20名は、去年までは部長の岩田と、その部下である運野の二人で安楽死を施してきたことになるが、実際に岩田が施行したのは「2名だけ」。残りの18名はすべて、運野の手によるものだった。
運野は亜桜が緩和ケア病棟で修練中に他院から赴任してきた医師だ。「運野開」なんて、なんだかおめでたい感じの名前なのだが、その人物が3年連続「国内での安楽死実行件数、ナンバーワン」なのだから、名は体を表さない。いや、それを望んでいる患者にとっては、ある意味ありがたいのかもしれないが。
「望月先生~、今朝はありがとう~。鈴木さんを僕の代わりに診てくれたんだって~?」
亜桜がカルテを打ち込んでいると、ナースステーションに現れた運野が後ろから話しかけてきた。朝からあまり聞きたくない声だ。語尾が不自然に伸びる、テノールの声。「あの声を聞いていると安らぐんです」という患者も確かにいるが、亜桜はどちらかといえば苦手だった。正確には、声が苦手というより、運野という人間そのものが苦手だ。というか、嫌いだ。
「いえ、病棟の看護師に頼まれただけですので」
亜桜がカルテの画面から目を離さずに答えると、運野は隣の椅子に座ってニコニコと笑いながら話を続けようとしてきた。亜桜は少しだけ、運野の逆側へ体を引く。
「ところで望月先生~、聞いたよ~? なんでも元カレが担当患者になったんだって~?」
「誰に聞いたんですか。元カレじゃありません」
亜桜の声が少し上ずる。
「オオ~ッ、元カレじゃないのですか? 水原先生から様子を聞いて、てっきりそうじゃないかと思ったのですが~。ンンン~、でも水原先生心配されていましたよ。だから僕に担当代わった方が良かったんじゃないかって」
長身で、椅子に座っても亜桜を斜め上から見下ろす格好になる運野が、体を折り曲げるようにして亜桜の顔を覗き込んだ。
「大丈夫です。ご心配ありがとうございます」
「ンンン~、そう~? 国家認定緩和医になったばかりだからって気負い過ぎないようにね~。僕ならいつでも担当交代してあげますから~」
「はい、そのときが来ないように祈っていて下さい」
亜桜は運野に一瞥もくれることなく、カルテを閉じて回診へ立った。
「なんなのあの話し方!」
亜桜は病棟の廊下に出て、誰にも聞こえない声で悪態をついた。両腕にできた鳥肌は決して朝の冷え込みのせいだけではないだろう。
「まあ、元カレっていうのは当たっているけどさ……」
それを運野に当てられたというのが悔しい。いや、水原に聞いたというなら、あの初診の時点で彼女にも見抜かれていたのかもしれないが。
「うん、水原先生に見抜かれてた。そういうことにしよう」
亜桜は手をぽんと叩き、気持ちを入れ替えることにした。もう運野の「ンンン~、元カレ~」の音を耳から消したかった。
尊敬していないわけではない。運野が担当した患者が、「体が痛い」とか「呼吸ができない」とかで苦しんでいるのを見たことがない。岩田が指摘したように、確かに高い新薬をバンバン使っているのをよく目にするけど、それは「新薬でもその構造をすぐに理解して、手足のように使える」ということだ。亜桜には、それはまだできなかった。頭の出来が違う。「モルヒネが、好きなんです」などと言ってはみたが、それは使い慣れた薬だからというだけ。運野とは緩和ケア医としての次元が異なっていた。
亜桜は国家認定緩和医の修練医時代に、運野が安楽死を施行する現場を見たことが何度かある。それは岩田とは全く違う。岩田の作る空気は、重たく、緊張感があり、尖っている。それに対して、運野が安楽死のときに作る空気は柔らかく、明るく、穏やかだった。こんな言い方をしたら不謹慎ではあるが、自分がもし患者だったら「死ぬことを選んでよかった」と思わせられるんじゃないかと感じたものだ。
全国トップレベルの制度下安楽死を実践している医師として、講演の依頼は毎月のようにあるようだし、時にはテレビ出演もしている。女性ファンも多く、時々病院の看護師とデートをしている姿を目撃される――。
「うえっ、気持ち悪っ」
二の腕に再発した鳥肌をさすりながら、亜桜は担当する患者たちの顔を見に行くことにした。
国家認定緩和医・望月亜桜。まだその手で安楽死を施行したことはない。
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