06足るを知る(4)
「亜桜先生、笹崎さんに本当のことお話にならなかったんですね」
病院玄関で亜桜と一緒に見送りをしていた赤垣が、去っていく白いワゴン車を眺めながら不意に話しかけてきた。
「うん……。でも、それが良かったのかは今でも迷ってる」
さあっさあっと、微かな雨音だけが森の中に響く。
「私、あの後考えてみたんですけど。あの長男さん、夜逃げしたって方。本当に次男さんと同じような理由で笹崎さんの死を願っていたんでしょうかね」
「え? でも会社が倒産しそうになって、遺産目当てだったって刑事さんが言っていたのよ」
「まあ、そう考えたらわかりやすいんですけど。でも、私も何度か笹崎さんを受け持たせてもらいましたけど、事件前にお見舞いに来ていたのって長男さんだけだったんですよね」
「えっ? そうだったの。それは知らなかったわ」
「うん……。それに笹崎さんって『認知症』ってレッテルを貼られてしまっていますけど、ちゃんと話してみたら覚えていることも多かったですよ。時系列は多少ずれてましたけど、長男さんがお見舞いに来たことも、嬉しそうに話してくれていました。だから、さっき笹崎さんがおっしゃっていたことも……」
「もしかしたらこの数日以内に、長男さんがこっそり会いに来ていたってこと? まさか……」
亜桜は笑ったが、赤垣は真剣な表情で考え込んでいる。
「人は見かけによりませんよ。悪人っぽいからとか倒産しそうだったからとか、認知症だから何もわからないだろうとか、そういった表面的でわかりやすいストーリーで決めつけがちですよね。でも、人間ってそんなに単純な生き物じゃないんじゃないですか。それにこういう場合、最初からいかにも怪しいって人は、大抵いい人だったりするんです」
「さ、さすがは刑事モノが大好きってだけのことあるよね……。考察の仕方が」
「ええ、でも大枠では外してないことの方が多いですよ」
赤垣がくるっと踵を返して病棟へ歩き出したので、亜桜も少し遅れて後を追った。
――確かにそう考えたら長男さんの言動はある意味、母親の思いを実現させてあげようと一生懸命だった、とも取れるのかな……。
亜桜が考え込みながらナースステーションに戻ると、運野がカルテを打っていた。何か言われそうな気がするなあ……と嫌な予感がしたため、亜桜は少し離れたテーブルでカルテを打ち始めた。
「さっき退院した、笹崎さんね~。息子さんが大変だった人ね~。報道は施設側中心で、照葉のことには触れられなかったから、岩田先生も胸をなで下ろしたみたいよ~」
案の定、話しかけてきた。きっとこの後に嫌味が来るのだ。
「そうですね。うちは特に何もしていませんけど、犯罪事件の報道で名前が出てしまうって名誉なことではないですからね」
「ね~。不用意に安楽死の手続き進めなくてよかったよね~。今回ばかりは望月先生の臆病さが役に立ったってわけ」
もうこれくらいのことは気にしない。カルテ画面を見つめながら「何ですか、臆病って」と、努めて冷静に返す。
「あら、だってそうでしょ? 『イエロー』の判定まで出ている患者に対し、手続きを進めようともしなかったじゃない。国家認定緩和医としてはあり得ない判断の遅さだわ~」
運野が椅子をくるりと回して亜桜の方へ体を向けたようだった。
「でも笹崎さんは、今は生きたがっている、と私は判断したんです」
「認知機能が低下している今と、正常な判断が可能だったころと、どちらの言い分を信じるの? 認知症になったら死なせてほしいって公正証書にまで残していた本人の意志よ~。アナタは、その意志を行使する権利を奪ったのよ。今回は、法定代理人が逮捕されたり夜逃げしたりのバタバタでうやむやになってしまったけど、『患者の権利法』違反で罪に問われてもおかしくはなかったのよ?」
亜桜のカルテを打つ手が止まる。
「……しかし、認知症患者における事前指示と、認知機能低下後の意志表示のどちらを優先すべきかというのは、過去の事例を見ても意見は割れていたはずです」
「そうよ~。よく知ってるじゃない。でもね、『割れている』ってことが問題なんでしょ。どちらに転ぶかわからない、ってことは有罪にもなり得るってこと。それって迷惑なのよね~」
「迷惑をかけたなら謝罪はしますが、迷惑をかける前から叱責されることに応える必要はありません」
亜桜は運野に一瞥もくれることなく、再び手を動かし始めた。
「ンンン~。まあいいわ。とにかくアナタが臆病だということはよくわかったから。このままじゃ、アナタ1件も制度下安楽死を実施できずに時間だけが過ぎてくわよ。さすがに、実績ゼロじゃ経営陣もいい顔を続けられないわよ~」
「……私は、運野先生がどうして制度下安楽死件数日本一の座を維持できるのかがわかってきた気がします」
「あら~。誉め言葉と受け取るわ」
ふふふと運野は笑い、カルテ・タブレットの画面を消してナースステーションを出ていった。亜桜は大きなため息をついて、テーブルにもたれかかる。何だか胃のあたりが痛い。国家認定緩和医の資格を取ってからこの方、ストレスがかかる案件ばかりで気が休まらない。国家認定緩和医になるということは、こんなにもしんどいことだったのか、と少し後悔する。でも、少し、少しだけだ。父との約束がある。朔人も自分を頼ってくれている。まだ、診なければならない患者はたくさんいる。
拳を握って立ち上がったその時、胃にキリキリとした痛みが走る。ああ、ダメだなこれは……帰りに薬局に寄って胃薬買って帰ろう。
国家認定緩和医・望月亜桜。まだその手で安楽死を施行したことはない。
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