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05忘れてしまえるものならば(4)

 次の日の朝、出勤してきた亜桜がカルテ・タブレットを開けると、いつものように患者一覧が画面上に流れる。笹崎の判定は今日も「イエロー」。昨日あれだけ食べられたのだから、今日は「レッド」に戻っていないかな、と期待して来た亜桜は出鼻をくじかれた。
 笹崎の詳細画面を開き、食事欄を見て驚く。
「えっ? 昨日の夜と今朝の食事は1割? それしか食べられなかったの……」
 昨日の昼は確かに9割と記載されていた。それが夜には急に1割……。何かあったのかと訝しみ、亜桜は817号室をノックした。
「あら、おはようございます。先生」
 笹崎の様子は昨日と全く変わりない。むしろ昨日よりも調子が良いように感じる。
「おはようございます、笹崎さん。昨日はよく眠れましたか」
「ええ、もうぐっすり! 朝ごはんも美味しくて」
「朝ごはん……どれくらい食べましたか」
「ええ?」
「朝ごはん、残しませんでした?」
「全部美味しく頂きましたよ」
 笹崎はニコニコと笑う。記録が間違っているとは思えないので、これは笹崎が覚えていない、ということなのだろう。しかし、その後も何とか辛抱強く問診をして、診察もかなり念入りにしたけれども、笹崎の体には特に異常は見られなかった。
「はい、ご丁寧にありがとう」
「いえ……こちらこそお付き合い頂きありがとうございました……」
 亜桜がぐったりとしながら、笹崎のローブのような服を直していると、笹崎はふと何かを思い出したように部屋の入口を眺めた。
「どうかしましたか?」
「いえね、さっき息子たちがいたでしょう?」
 息子二人が来ていたのは昨日だが、亜桜はそこには触れず、話を続ける。
「息子さんがどうかしましたか?」
「もう行ってしまったのかなあ……って。寂しいわ」
「息子さんたちが好きなんですね」
「そりゃあそうよ! 自慢の息子たちなの。上の子は、いつも生傷が絶えない腕白な子で。でも勉強もできて面倒見もいいから、いずれは社長にでもなるんじゃないかって思っているの。次男はねえ……おとなしい子で。この子の方が心配で、いつかいいお嫁さんが来てくれたらなあ……って」
 どうやら、笹崎は昔に立ち返っているらしい。束の間のタイム・スリップ。これも、もしかしたら笹崎の魔法なのかもしれない。
「子供たちと、これからもずっと一緒に過ごせたらなあ……って思うわ」
 笹崎が柔らかく笑うので、亜桜も晨のことを思い出して「そうですよね」と相槌を打った。

「どうでした? 笹崎さんの診察に行ったんですよね」
 ナースステーションに戻った亜桜に、赤垣が尋ねてきた。亜桜は首を振りながら椅子に座る。
「特に異常なしよ。やっぱり私には笹崎さんが終末期の患者には見えない。どうして『イエロー』の判定がつくのかが理解できない」
「まあAIのことそんなに信頼しなくていいと思いますけど……。理由とすれば、ご飯が食べられないからじゃないのですか? このまま食事がとれなければ、胃瘻や中心静脈栄養でもしない限り、1~2か月くらいの余命っていうのは事実ですよね」
「確かにその通りなんだけど……。昨日の昼は食べられたっていうし、今の元気そうな様子を見ていても、食べられないっていうのが信じられないのよね……」
 亜桜が腕を組んで考え始めると、赤垣も一緒になって「うーん」と唸っていたが、ふと「あ、もしかしたら……」と呟いた。
「え、なに? 何か思いついた?」
 亜桜が赤垣の顔を覗き込むと、彼女はニヤッと笑って「ちょっと見ていてください」と言った。
「うまくいけば、週明けにはご飯を全部食べられるようにしてみせましょう」
 赤垣は目の前に水晶玉が置かれているような仕草をして、ムニャムニャ呪文を唱えてみせた。

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西智弘(Tomohiro Nishi)
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