07屈辱(1)
「お帰り。今日は早かったのね」
亜桜のマンションは病院から歩いて20分の距離にある。自宅のドアを開けると亜桜の母、貴子が玄関まで出迎えてくれた。
「うん、ちょっとお腹が痛くなってさ。薬局に行きたいって言って、16時に早退させてもらったんだ」
「あら、ちょっと大丈夫? 薬飲むよりも先に、他のお医者さんに診てもらった方がいいんじゃない? 検査はしたの? 北部病院の予約は?」
「お母さん、大げさだって。ちょっと胃が荒れてるだけよ」
「そんなこと言っててお父さんも大変なことになったんだから。忘れてないでしょ」
確かに。
「私は医者なんだから。自分の体のことくらい自分でわかるわ。それに、症状も昨日くらいからだし、今は落ち着いたし。一応、診断用AIにも接続してみたからさ……。とにかく、お父さんの時とは違うわよ。長く続くようなら、私もきちんと検査するから」
「ええ、お願いよ。お母さん、あなたまで喪ったら本当にもう生きていけないんだから」
「ははは……縁起でもないこと言わないで。ところで、晨は? いつもなら駆け出してくるのに」
「さっきまでネット・テレビ見てたけどね。こんなに早くママが帰ってくることないから、わかっていないんじゃないかしら」
「そうかもね。じゃあちょっとびっくりさせてやるか」
亜桜は静かに廊下を歩き、リビングのドアを開ける。そこには、子供用番組を壁面に投影して夢中になっている息子・晨の後姿があった。
「ばあーっ!」
「うわあー! あっ、ママー!」
晨はびっくりして飛び上がり、くるっと振り向いたところで満面の笑みとなって抱きついてきた。
「びっくりしたよー」
「あはは、ごめんね」
「ママ、今日は早いね!」
「うん、ちょっと色々あってね」
「……おぐあい悪いの?」
晨は子供ながら意外と勘がいい。
「まあちょっとね。でも、お薬買ってきたから、これ飲んで寝れば大丈夫よ。それより、今日は早く帰ってきたからママがご飯作れるよ。何か食べたいものある?」
「やったー! じゃあママのにこにこハンバーグ!」
亜桜は冷蔵庫の中をごそごそとチェックする。
「あー、えっとハンバーグはお肉がちょっと足りないから無理かなー」
「えー、じゃあトマトのスパゲッティは?」
「ミートソース? ああ、それくらいならできるかも」
「じゃあそれ!」
晨は、ぱあっと笑顔になり再びネット・テレビの世界に戻っていった。
「ご飯の前ってずっと、ああやってテレビ見ているの?」
リビングに入ってきた貴子に、亜桜が尋ねる。
「そうね。ほら、研修から帰ってきてからあなたの帰りも少し遅くなったじゃない。それから、テレビの時間が多くなったかしらね」
「そうかー……。晨に寂しい思いをさせてるのかもね」
「そうね……。近くで遊べる友達でもいれば良かったんでしょうけどね」
貴子がため息をつく。晨の通っている幼稚園はマンションから少し離れたところにあり、同じクラスで仲の良い子は駅の反対側に住んでいて時々しか遊べなかった。
「じゃあ、ペットを飼ってあげるなんてどうかしら? 最近ね、AIウォッチでもお勧めされることが多くてさ」
「ペットねー……。まあ、悪くないとは思うけど。飼いたいなら、私がお世話してあげてもいいわよ」
「ほんと? じゃあ、前から飼いたいと思ってたのがあるんだけど……」
亜桜が少しもじもじしながら上目遣いに貴子を見る。
「あら、あなたが飼いたかったの。あなたの方が子供みたいじゃない」
貴子は、玩具をねだってきた幼いころの亜桜を思い出して優しい笑顔になる。
「それで、何を飼いたいのかしら」
「えっとね、コーンスネークか、フトアゴヒゲトカゲ!」
「うん、ごめんなさい。ダメね」
貴子は急に真顔になった。
「えーっ! じゃあエボシカメレオンでもいいんだけど……」
「巨大になってるじゃないの。そういう問題じゃなくて……。そうだったわ、この子こういう子だったんだわ……」
記憶の底に眠っていた忌まわしいエピソード――20年前に実家の庭を爬虫類の巣に変えたことなど――の数々を思い出し、貴子の顔が苦悩に歪んだ。
「やっぱりダメ?」
「ダメに決まってるでしょ。お母さん、爬虫類苦手だもの。もっと普通のにしてちょうだい」
「ええーっ。普通って何よ。あの可愛さがどうしてわからないの。クリっとした目、冷やっとしてヌメヌメした鱗……気持ちいいんだけどな。カメレオンならあの三つ又の指が最高にセクシーで……」
亜桜の話が終わる前に、貴子は二の腕に鳥肌を立て、自室へ逃げ込んでいった。憮然とした表情の亜桜のズボンを、いつの間にか近寄ってきていた晨が軽く引いた。
「ママ……。晨はね、えっとね、トカゲ好きだよ」
「でしょー。晨はいい子だねえ」
亜桜がしゃがみこんで抱きしめると、晨はきゃっきゃと笑った。
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