見出し画像

03温泉と父と(4)

 墨を溶いたような重たげな曇天の下、振袖姿の女の子と慣れないスーツ姿の男の子たちが駅に向かって歩いていく。これからどこに行く、みんなでご飯食べようか、なんてはしゃぐ声。その声の真ん中を、薄紫の振袖が突っ切る。藤の花が大胆に描かれた袖からは、焚き染められた香が匂いたった。
「えっ、何かの撮影かな」
「芸能人?」
 道行く人が振り返り、ささやく声が聞こえる。亜桜はそんな喧騒を背に、道を挟んで駅の反対側にあるバスターミナルへ急いだ。
――ぜんっぜん嬉しくない。
 朝から美容室で整えた髪も、慣れない化粧も、貴子が「私のお古で申し訳ないのだけど」と直してくれた着物も。私はこれからひとり、病床で待つ父に最後の着物姿を見せるために行くのだから、と考えながら亜桜は「照葉総合病院行き」と表示されていたバスに乗り込んだ。
 健治の病状は、年末から一気に悪くなっていた。亜桜の合格した医学校は、神奈川県外になってしまったため、何かあったときにすぐ戻ってくることができない。そのため、亜桜は念のため大学に長期欠席届を出して、実家に戻ってきていた。
「2か月以上休まれるなら、休学の手続きになります。また、長期欠席中に試験がある場合は単位を落とすことになりますので、注意してくださいね」
 教務課の職員にはそう忠告されたが、人の命のことだ。いつどうなるかなんてわからない。でも、どうせもう父の病気を自分で診るという約束は果たせないのだ。だったら1年留年したとしても、せめて娘として父のそばにいてあげたい。昨年末から、「学費の足しにするため」とパート勤務を始めた母には申し訳ない。亜桜もアルバイトを探さないとならない。でも、留年やお金を気にして、いま父のそばにいられなくなるのはもっと嫌だ。バスの車窓から、寂しくなった冬の森を眺めながら亜桜はそう思った。

「おおお~、亜桜。すごいじゃないか。どこのお姫様が現れたかと思ったよ」
 病床に横になっていた健治はゆっくりと体を起こして娘を出迎えた。
――小さくなった。
 昨日もここに来た。一昨日も来た。毎日見ているはずなのに、毎日小さくなっていく。涙がこぼれそうになったが、平静を装ってベッドサイドの椅子に座った。
「お母さんは?」
「ああ今日な、広島の伯父さん……知ってるだろ? お父さんの兄さん。今日急に来られることになって、お母さんが駅まで迎えに行ったんだよ」
「なんだ。そしたら入れ違いになったんじゃない。連絡くれれば待ってたのに」
「そういえばそうだな。兄さんから急に連絡来たから、母さんも慌てたんだろ。兄さんは病院の場所も知らないし、脚も悪いし……」
 そこまで言ったところで、健治は急に黙った。そして、
「脚の悪い兄さんが、わざわざ来てくれるってことは、もうそろそろってことなんだろうなあ」
 と呟いた。
「そんなことないでしょ。昨日より顔色いいし」
 亜桜は目を背けながら取り繕ったが、健治は首を振った。
「ははは、亜桜はお医者さんになるんだから、患者にウソついちゃいけないな」
「ウソじゃないし……」
「あのな、亜桜。お父さん、死ぬことは怖くないんだ」
 亜桜はびっくりして健治の顔を見た。いつになく、真剣な顔。
「死ぬことは怖くない。ほら、みんなの前で最後の授業もさせてもらえたろう。あれはうちの高校も、粋な計らいだったよな。その点については思い残すこともない。まあ欲を言えば、もっと亜桜やお母さんと一緒にいたかったけど、こればかりは仕方ない。歴史上の人物も、みんなそんな無念を抱えながら、でも潔く死と向き合ってきたと思うんだ。お父さんもそうありたい」
――嫌だよ、何で急にそんなこと言うの?
 亜桜は太ももの上の拳をぎゅっと握ってうつむく。
「逆に言えば、早く潔く死なせてほしいとも思うんだ。痛みもないし、苦しくもないし、こうして会話もできる。でも、もうさすがに教壇には立てないし、それどころかトイレに自力で行くのもしんどい。ここに入院してからは、もう終わりにしてくれ、って思わない日は無いよ」
「それでもいいから、私はお父さんに生きていてほしい」
 亜桜は声を絞り出す。
「泣いてるのか?」
「泣いてないわよ」
「そうか」
 ちょっと横になるよ、と言って健治は体を倒し、天井をじっと見ていた。亜桜はかける言葉もなく、健治の細くなった指先を見ていた。
「あのな、亜桜。お前、安楽死制度って知ってるよな」
「……知ってるよ。いま、話題だもの」
 健治の病気がわかったころ、「患者の権利法とその関連法案」が国会に提出されたことをきっかけに、日本中が安楽死の是非について激論を交わしていた。多くの医療者は当初、反対の立場をとっていた。亜桜が医学部を受験する際に面接があったが、もしも安楽死について尋ねられた場合、「医師として生命の延長に最善を尽くします」と答えなければ一発で不合格になる、との噂までたった。しかし、安楽死制度を運用する上で、協力した病院・医師に多額の支援金が支払われることが明らかになってからは、徐々に制度に賛成する医師たちが現れはじめた。そうして医療界は完全に二分されて賛成派と反対派でお互いに争う形となり、その政治力を失った。
「多分な、すごい政治家がいるんだよ。吉田茂や田中角栄とか軽く超えるような。いまの首相ではない……誰かわからないけど。タブーに近い話題を国論にして、業界団体を二分させて弱体化し、圧倒的な民意を煽ってここまでこぎつけた。何年もかけて病院を経済的に締め付けて、あの大合併を余儀なくしたのも、もしかしたら計算のうちだったのかもな。金を使った統制がしやすくなるからな。本当にすごい戦略だよ。並みの人間のできることじゃない」
 実際、「患者の権利法」自体は既に成立し、安楽死制度に必要な法改正まで秒読みとまで言われていた。
「あれ、お父さん使ってみたかったな」
「えっ。お父さんは安楽死賛成派なの」
 意外だった。
「賛成派も反対派もないさ。お父さんは当事者だからね。実際に自分で病気を経験して、死が間近になって、それでそう思った。それに、歴史が変わる瞬間に立ち会えるっていうのは幸せなことだからね」
 遠くを眺めた健治の目はキラキラと輝く。
「でもな、この病院だったら制度が認められても、もしかしたらできなかったかもしれない」
 健治は急に声のトーンを下げた。
「なんで?」
「お父さんの主治医の先生はな、安楽死反対派みたいなんだ。いや、医者としては素晴らしい人だと思うよ。痛みはピタッと止めてくれたし、毎日決まった時間に来て、ゆっくり話も聞いてくれるし。でも、安楽死について話題にしてみたこともあるんだけど、あれだけはダメって叱られた」
「そうなんだ」
「ところで亜桜は、どんな医者になりたいんだ?」
「えっ、急に聞かれてもわかんないよ。お父さんの病気を診られる医者に……って思ってたけど」
「そうか。俺はもう見ることができないけど、できれば今の主治医みたいなお医者さんになってほしいな。がんを治療してくれた最初の先生も良かったけど、薬と検査の話ばっかりでなあ。今の先生は、何でも話せる。自慢の娘の話も聞いてくれるんだぞ」
「うん」
「でもな、終わりにしたいって患者が言った時には、その思いに耳を傾けられるお医者さんになってほしい。それが最後の希望なのに、信頼している先生からはねつけられたらそれこそ死にたくなる」
「……うん」
「亜桜、約束な」
「うん」
「立派なお医者さんになってくれよ」
「うん」
「泣いてるのか」
「泣いてる……」
「そうか」
 健治は、頭を撫でようと手を伸ばしたが、きちんとセットされている髪を見てその手を引っ込めた。
「話し過ぎたな。少し休むわ」
 健治は目をつむり、長い息を吐いた。
「あ、これから伯父さんも来るのに疲れちゃったよね。また明日も来るから」
 亜桜は涙を指で拭いながら立ち上がった。
「明日は平日じゃないのか」
「そうよ。でも大学には欠席届け出しているから」
「いつまで休むんだ」
「……しばらくよ」
「ダメだ。学校に戻りなさい」
「何でよ。大丈夫よ」
「大丈夫じゃない。さっき約束しただろう。立派なお医者さんになれって。世の中で苦しんでいるのはお父さんだけじゃない。たくさん勉強して1日でも早く、お父さんとの約束を果たしてほしい。それにな」
「はい」
「もう亜桜の足を引っ張りたくないんだ。お前には、いつもと変わらない日常を過ごしてほしいんだ。お父さんはこれから、もっと弱って、話すこともできなくなる。そんな姿を娘には見られたくない。まだ少しでも、元気な、威厳ある父として記憶に残りたいよ」
 健治は目を開き険しい顔で亜桜を見つめた。亜桜はベッドサイドに立ち、しばらくの間、父の顔を見返した。
「……わかった。わかったよ、お父さん。私は、約束を守るよ」
「ありがとう、亜桜」
 健治は頭を持ち上げ、娘の姿を仰ぎ見て笑った。
「お前は本当にきれいになったよ。お父さんは、本当にうれしい」
 亜桜はまた涙がこぼれそうになったので、
「お父さん、またね。休みの日にはまた、来るからね」
 と言って、病室から出た。健治はその後姿をぼーっと眺めていたが、すぐに目をつむり、昔歌った変調の子守歌を口ずさみだした。途切れ、途切れて、寝息に変わり、暗くなってきた窓の外にはひらひらと雪が降り始めていた。

※お話を一気に読みたい人、更新されたら通知が欲しい人は、こちらから無料マガジン『褐色の蛇』をフォローしてね↓


いいなと思ったら応援しよう!

西智弘(Tomohiro Nishi)
スキやフォローをしてくれた方には、僕の好きなおスシで返します。 漢字のネタが出たらアタリです。きっといいことあります。 また、いただいたサポートは全て暮らしの保健室や社会的処方研究所の運営資金となります。 よろしくお願いします。