プロローグ
手を合わせること、
祈ること。
それが、人の営みとして大切なものだと感じるようになったのは、いつのころからだろうか。
僕は子どものころから「死」が怖くなかった。
僕を可愛がってくれた祖父が亡くなった時、僕はその死を見せてもらえなかった。次に祖父と会えたとき、彼はもう錦をまとった棺の中にいた。訳が分からないままお寺の座敷に座らされ、お経の本を手渡される。僕は幼いながらに般若心経をどの子よりもうまく唱え、親せきのおじさんたちに誉められた。それしか記憶がない。
同じ学年の子が亡くなった時も、目の前で倒れたその子を見て、「転んだぞ!」って、僕は友だちと笑っていた。教師たちがその子を担ぎ出してから先、その子は帰ってこず、数日後に教師から死を告げられた。友だちはわんわんと涙を流していたけど、僕はやはり亡くなる瞬間に立ち会っていない死に実感がわかずにいた。ただ、倒れたのを笑ったのは済まなかったな、とだけ思っていた。
目の前で人の死を初めて見たのは、まだ医者になる前、一晩だけ病院に泊まるという、何が目的かもわからない実習の時だった。ほとんど何も教えてくれない看護師の後ろをついて、21時ころまでちょっとしたお手伝いをし、
「もう休んでいただいていいですよ」
と言われて、部屋に戻る。今思えば、その看護師だって、ぼーっとした医学生を持て余していたんだろうと思う。
そうして、病院の闇の中にまどろんでいこうとしていたその時、どんどんどんと、部屋のドアが大きく叩かれた。
「学生! 起きろ! 急変だから見に来い!」
と、その日の当直だった医者に起こされ、何もわからないまま僕は病室まで走った。
そこで見たもの――年老いた男性が、看護師に胸を押されてがくんがくんとベッドの上で波打つ姿。口には管が入り、虚ろな目がこちらを見ている。
「これが、死か」
僕は部屋の入り口近くで、ただその光景を見ていた。じーっと観察していた。でもやはり、怖くはなかった。30分ほどでその処置は終わり、看護師がもう動くことのないその体に布団を被せた。僕を叩き起こした医師は、どういうつもりだったのだろう。奇跡的な蘇生の瞬間を見せて、医療の素晴らしさを教えようという筋書きだったのだろうか。僕がずっと入り口近くでたたずんでいるのに気が付いたその医師は、目を合わすこともなく、
「医療の現場では、よくあることだから」
とだけ言って、部屋を出ていった。彼は気まずそうだったが、僕は何とも思っていなかった。
「これが、死か」
ということ以外に、何の感情も湧かなかった。
それから医者になり、僕はたくさんの死に立ち会った。
自分が長く診ていた患者が亡くなることもあったし、初めての対面が死というときもあった。でも、そのひとつひとつに僕は色を感じなかった。同僚の医師が、患者の死に立ち会って涙を流しているのを見たとき、僕は彼のことを心底羨ましいと思った。
――ああ、彼の心の中には死の色がある。自分にはない、死の色が。
緩和ケアを専門とする医師となって、死に立ち会う頻度は段違いに増えたが、それでも死が色づくことはなかった。ただ、毎週のように死が訪れる現場では、僕のこのタチは、むしろ好都合かもしれないとも思った。緩和ケアに憧れを抱く医師たちが、たくさんの死の色を見て、そして疲弊してこの現場から立ち去っていくのを横目に、僕はまだここに居続けられているから。
ただ、あるときから僕は、死に対して手を合わせて祈るようになった。
時には見える形で、時には心の中で。どういう心境の変化なのだろう。相変わらず、死に色はつかない。怖さもない。
でも僕はいつの間にか、死に対して、そして生に対しても手を合わせるようになっている。
吉田ユカからの電話
「西先生。『安楽死をしたい』という患者さんが、先生の外来を受診したいという依頼が入っていますが……」
そんな内線電話が病院の地域医療部から入ったのは、桜が去って緑が萌え始める春の終わりのことだった。
「僕はどちらかと言えば安楽死には慎重な立場なんだけど……」
「ええ、でも先生をご指名ですよ。ⅠDをお伝えしましょうか?」
電子カルテの前に座り、伝えられたナンバーを打ち込むと、患者の氏名がパッと表示された。
吉田ユカ、37歳。
聞いたことがない名前だ。以前に会ったことがある患者ではない。
「どういった依頼なのですか?」
「膵臓癌を患っているそうです。それで、今は都内の大学病院で抗がん剤治療を受けていますが、それと同時にスイスに行って安楽死をする準備を進めているそうです。でも、それが難しい場合に、日本で緩和ケアを受けたいというお気持ちもあるようで……。安楽死に理解のある西先生に診てもらいたいとのことでしたよ」
うーん。
僕は考え込んでしまった。たしかに僕は最近、安楽死についてインターネットで記事を書いたり、取材を受けたり、またそれをテーマに講演を依頼されたりしている。
近年、高齢社会を背景にして、人がどう生きるのかということ、そしてどう死んでいくのかということについての関心が高まってきている。そんな中で、ある有名人が「私は安楽死で死にたい」と発言してみたり、実際に安楽死で最期を迎えた方々の報道などがされたことで、テレビも雑誌もインターネットも、「安楽死」という言葉でにわかに賑わってきた。
ニュースが賑わえば、それに対する専門的なコメントも求められる。それなら日常的にたくさんの死に向き合っている緩和ケア医は「死の専門家」だろう、ということから多くの依頼が来たということ。短絡的な話だ。僕らはあくまでも生きている人に対して治療を提供する医者のひとりであり、死の専門家でも何でもないのに。
もちろん講演や取材に当たっては、安楽死について少しは勉強もしたし、たくさんの依頼が来たことで、この数か月、安楽死についていろいろと考えさせられる機会も多かった。ひとりの医者として、安楽死に対して温めてきた考えもある。でも僕が「安楽死に理解のある医師」なのか? と言われたらよくわからない。僕は緩和ケア医だ。立場的には安楽死に賛成できるものではない。本当に僕がその方の担当医でいいのだろうか?
「どうしましょうか? 難しければお断りしますが……」
あまりの長考に、地域医療部のスタッフが、電話の向こうでしびれを切らしている。
「いや、ちょっと待って。いきなりの依頼に混乱しているだけだから」
うーん、でも他の医師だと「安楽死」なんて言葉が出たらよけいに面食らうだろうな。僕が受けるしかないんだろうな……と思っていたところに、電子カルテにあったひとつの文章が目に飛び込んできた。それは地域医療部が吉田ユカから依頼の電話をもらったときに書かれた、プロフィールシートだった。
そこには彼女が放った言葉が、こう書かれていた。
「日本には、安心して死ねる場所がない」
僕はその文字を見て、かっと頭が熱くなった。
日本には安心して死ねる場所がない――だからこの患者はスイスに行こうとしているのか……。僕は日本の緩和ケア医として、どうすれば患者たちがこの国で、安心して生きて、そして死んでいけるのかということを、ずっと考えて実践してきたつもりだ。10年前と比べれば、この国はずっと良くなったと思う。それでもこの吉田ユカという患者は「ここには安心して死ねる場所がない、スイスで安楽死したい」と言っている……。
がぜん、興味が湧いてきた。
まず一度会ってみよう。「スイスで安楽死をしたい」という患者の主治医になるのは初めてのことだ。まず会って、話を聴いてみないことには、どういうことなのかわからないじゃないか。
「わかりました。僕の外来で面談しますので、『早期からの緩和ケア外来』で初診の予約を取っていただけますか?」
と告げると、地域医療部の担当者もほっとしたようだった。
「早期からの緩和ケア外来」というのは、他の病院で抗がん剤治療を行っている方に対して、緩和ケアだけ当院で受けられるようにする仕組みだ。
僕が専門とする「緩和ケア」は、一般的に「終末期医療」のイメージが強く、余命が本当に短くなってから最後に受けるケアと思われがちだけど、最近の研究では抗がん剤治療と並行して緩和ケアも受けることで、患者の生活の質が上がることが示されている。
この10年ほど、アメリカやヨーロッパでは、抗がん剤治療と緩和ケアをどのように組み合わせていくのが良いのか? という議論が盛んにされている。これを受けて、日本でも徐々に、緩和ケアを早期から受けられるようにする仕組みが全国的に整ってきている。早期からの緩和ケアだって、僕らが作ってきた、日本で安心して生きていくための仕組みなのだ。
きっと、話せばわかることがある。僕だって伊達に、緩和ケアの専門家を10年もやってきたわけじゃない。緩和ケアは体の痛みだけではなく、心も、社会的な苦痛も緩和できる方法だ。安楽死なんてことを考える前に、まだ、できることがあるはずだ。きっと、何とかできるんだ。
そう期待して、僕は外来の日を迎えた。ドアを開けるまで、僕は自信満々だったのだ。
――そう、ドアを開けるまでは……。
※お話を一気に読みたい人、更新されたら通知が欲しい人は、こちらからマガジン「だから、もう眠らせてほしい」をフォローしてね↓
次のお話はこちらから↓