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07屈辱(5)

 その後も毎月、亜桜は前田や加藤、そして長谷川が待つ「日本酒を楽しむ会」に参加を続けた。前田の目利きは素晴らしく、出てくる酒がどれも素晴らしいことに加え、「今日は『南部杜氏特集』ね」「今日は『旭穂』のオーナーにお越しいただきました」など参加者を毎月飽きさせない企画の立て方が最高だった。
 そして、加藤か前田か、それとも「フルーツ・フォレスト」の結城の計らいかわからないが、亜桜はたいてい長谷川とセットで座らせられた。長谷川は毎度「いやあ」「照れるなあ」とか言いながらいそいそと亜桜の隣に寄ってきたけれども、亜桜はほんの少量だけニコニコと愛嬌を振りまきつつその芯は冷静だった。
――豆腐みたいな人ね。
 その日の純米大吟醸原酒を水のようにあおって桃色に染まっていく長谷川の横顔を、横目に入れながら亜桜は、おつまみ代わりに机に置かれた白くて四角の冷奴を見つめる。塩をかければ塩の味が、ダシで煮ればダシの味が、長谷川からもするんじゃないかと思った。どんなに細かく切っていってもその断面は真っ白で、よく言えば清廉で真面目、悪く言えば直情径行で周囲に染まりやすく面白みがなかった。
「私は、望月さんが参加しているから参加しているんですよ」
 ある会のとき、酔って顔を真っ赤にした長谷川に詰め寄られたことがある。
「そういうことは、酒の力を借りずに言うものですよ」
 亜桜はぴしゃりとはねつけ、グラスにもう1杯なみなみと酒を注いでやった。

「いいじゃないの、その長谷川さんって人。長く添い遂げるなら豆腐みたいに飽きが来ない人の方が向いてるわよ。ステーキは毎日食べられないでしょ」
 日本酒を楽しむ会から帰った後、母・貴子に長谷川の人物評を述べたときの感想である。
「そんなものかしらね」
「そんなものよ、結婚って。あなたもそろそろ身を固めてくれないと。もう、デートの時にヘビの話とか小難しい話とかするんじゃないよ」
「余計なお世話よ」
 貴子に指摘されるでもなく、これまで付き合う人付き合う人からフラれ続けてきた原因は亜桜にもわかっていた。いや、亜桜に言わせれば男の方も悪いのだ。だって、「ご趣味は」「最近気になっていることってある?」って聞いてくるから正直に「子供のころから爬虫類が好きで、庭中に放し飼いしていました」とか「最近は、かつてダークマターと呼ばれていたものの測定結果がどうなっていくかに興味があります」などと答えただけなのだ。それだけのことなのに何度「僕には君を支えていく自信がない」と、断り続けられたことか。誰も、支えてほしいなんて一言も口にしていないのに。
「中学の時から何も進歩していないじゃないの。みんながみんな、朔人君みたいにあなたの特殊な趣味に理解あるはずないんだからね」
「あーもう、そこで昔の彼氏の話持ち出さないでくれます?」
「そうそう、高校のとき仲の良かった紗菜ちゃん。あの子に時々会ってるんでしょ。相談してみたらいいわよ」
「……いやもう、本当に余計なお世話よ。そもそも長谷川さんとはまだそういう関係でもないんだしね」
 しかしその翌週、市内のカフェには紗菜から延々と説教を受けて小さくなる亜桜の姿があった。紗菜にしてみれば、高校3年間をかけてようやく「普通の女子高生」に育てたと思っていた亜桜が、すっかり元に戻っていたことにがっかりしたようだった。注文したアイスカフェラテの氷はすっかり小さくなって、無造作にガチャガチャとかき混ぜる紗菜へ「そういえば少し太った?」と口に出して亜桜は、居残り1時間コース追加となった。
 10年ぶりに紗菜の「特訓」を受けた成果か、「結婚を前提に付き合ってほしい」と素面のときに告白してきた長谷川蓮と、亜桜は数か月後に結婚をした。科学館デートも、宇宙物理学の話題もきっちりとしまいこんで。それほど大きなときめきもない、日常の延長のようなお付き合いと結婚。それは朔人と付き合い始めたときの感じとよく似ていた。
――時間をかけて蓮のこともきっと好きになれる。
 朔人とのときのように、とまで考えて亜桜は自分が嫌になった。

 結婚してすぐに妊娠がわかり、1年後に晨を出産。思えば、その頃から夫婦仲は徐々にぎくしゃくし始めたように思う。
確かに蓮は晨が生まれたとき喜んでくれた。晨を抱っこしてあやしてはくれた。いいお父さんになってくれそうと期待もした。でも仕事を減らすでもなく、残業を断るでもない。さらには「ウンチ出たよ」とあっさり亜桜に晨を渡してくる姿に呆然と立ち尽くした。
「いや、俺そんなのやったことないし」
――私もこれまでやったことなかったんですけど。
そして、「共働きだし、自分のことは自分でやるってことで。そして子どもが生まれたら育児と家事は分担ね」と話していたのに、何もしてくれない。
「言われなかったからやらなかった。これからはやるよ」
しかし、実際にやってもらったら皿洗いも満足にできない。皿の裏にはパスタソースがべっとりと残り、フライパンは油でギトギトだ。亜桜が仕方なく二度洗いをしていると「何それ、嫌味?」「そんなに気になるなら君がこれからもやればいいよ。もしくは家事ロボット買えば? とにかく、良かれと思ってやってやったのに、そんな風に嫌がらせするんだったら俺はもうやらない」と言って、それからは一切の家事をしなくなった。見るに見かねて、貴子が実家から亜桜たちのマンションに通うようになり、結局はほぼ同居することになったのもこのころだった。
「結婚する前は、あんなに気を遣えるいい人だったのにねえ」
 貴子がそう嘆く声が、亜桜の胸に重く響いた。

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西智弘(Tomohiro Nishi)
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