08その瓶は死を待っているのか(4)
「SAKE・CAFÉ」からお客がいなくなり、無名のギタリストが帰っても、亜桜と朔人はカウンターで無言のまま飲み続けていた。
「なんか、ごめんね」
亜桜が静寂を破ると、その頬を桃色に染めた朔人が「何が」と返す。
「私、あなたのこと2回も振っちゃったじゃない」
朔人が酒を噴き出す。
「どうしたの、突然」
「本当に、私って子供だったなあ……って」
――ちょっと何かの選択が違ってたら、朔人と結婚して、妻として彼の隣にいるなんて未来もあったのかもしれないんだよね……。そしたらきっと今頃、かつて父にしていたようにかいがいしく彼の看病をして……。
ぼーっとした頭で妄想を豊かにしていると、朔人が心配そうに亜桜の顔を覗き込んだ。
「亜桜、酔ってるの?」
「酔ってない。酔ってないわよ」
はっと我に返り、亜桜は朔人を睨んだが、舌の動きは滑らかではなかった。
「いや……だって、亜桜ってこれまでもあまり過去を振り返ることなかったし。いや、過去は振り返っても後悔はしない、ってタイプだったから」
「そうかな? そうかもね」
亜桜は空になった酒杯を指でつついて弄ぶ。朔人が徳利に残っていた酒をゆっくりと注いだ。
「……何かあったの?」
「朔人には関係ないことよ」
酒杯を一気に空にして、亜桜は眉間に皺を寄せる。
「ねえ、亜桜……別に、何があったかとか聞かないけどさ」
亜桜は無言で、朔人に杯を突き付ける。朔人は笑って、その杯に数滴の酒を入れた。
「亜桜、ちょっと急ぎすぎていないかなって時々心配になるよ。仕事している姿しか見ていないけど……僕も、そうだったから。いろいろと忙しかったり、時間に……いや時間だけじゃなくて、うまく言えないけど得体の知れない『何か』にずっと追われてたように思うんだ」
「得体のしれない『何か』……?」
「うん。子供のころから、生きるのしんどいなあっていつも思っていた。死にたい、って口に出したこともあったよ」
「そうなの? でも私にはそんなこと一言も言わなかったじゃない」
亜桜がうろんとした瞳で朔人を見つめると、彼は照れくさそうに頬をかいた。
「あのときは、さ。亜桜には言いたくなかったんだ。こんなに美人で、勉強も運動もできて学年中の憧れで。でも好きになっちゃったから。どうしたら僕のこと見てもらえるだろうって、ずっと考えてたし……やっぱり焦ってたよ。そんな亜桜に、僕が弱いところなんか見せたくなかった」
亜桜は無言で、杯に残っていた酒を流し込む。
「だって、死にたいなんて口にするとさ、周囲の人たちって何て言うと思う?『頑張ろうよ』『生きていればいいこともあるよ』とかっていうのは何人からも言われた。あとは逆に『頑張らなくていいから』っていうのもあったよ。でも、僕にとっては生きていることが精一杯頑張っていることだったから、『頑張らなくていいよ』って言われたら『あ、死んでもいいんだ』って思ったよね」
「私にそう言ってくれたら、別の言葉が返ってくるかもとは思わなかったの」
「そうだね……。でもあのころは、あれで良かったんだと思う。誰かの腕の中にいるときは『死ななくてもいいかな』って思えたから」
亜桜はモヤモヤした気持ちで朔人の言葉を聞いていた。「腕の中にいるとき」というのは、きっと亜桜だけのことではなかっただろうから。少しだけ眉間に皺が寄ってきた亜桜を横目に、朔人は言葉を続ける。
「でも、病気になって、もうすぐ死ぬことが分かって、色んなものを失って……。そしたらなんだか憑き物が取れたみたいに、ある意味楽になった部分もあるんだ」
「それは、安楽死制度があったことも関係しているの?」
「うん……。それはあると思う。でも、それよりも……いや何でもない。とにかく、安楽死にエントリーしたからといって、いまは早く死にたいと思っているわけじゃないんだ。水原先生とかちょっと誤解してそうだけどね」
「でも朔人、水原先生に『いつ最期になってもいいんだ』って言ったんでしょ」
「そんなこと言ったかな?」
「言ってないの?」
朔人はぼーっと宙を眺めていたが、やがて少し目を見開いて亜桜を見た。
「ああ、あれでしょ。『いつ最期でも悪くはない』って言ったんだよ。ちょっとニュアンス違うでしょ」
「どう違うのよ」
「早く死なせてほしいとは思っていない。でも、その時が来たらその時だと思ってるし、できれば『その時』は自分で決めたい、ってことだよ。それくらいは自由にしたい」
不機嫌そうに頬杖をついて、亜桜は空になった酒杯を転がす。
「焦ってないのね」
「焦ってないよ。だから、焦ってるのは亜桜のほうじゃない?」
「焦ってる……。そうなのかな」
だんだんと朔人の声が遠くなり、まぶたが重くなってくる。
「ちょっと亜桜? もう帰ろうよ。タクシー呼んでおいたから」
会計を済ませて帰ってきた朔人は、亜桜の顔を覗き込んだ。
「うん……今日はありがとう、朔人」
亜桜は朔人の手をとってふらふらと立ち上がると、飯島に手を振って店外に出た。みずみずしい新緑の匂いが、深夜の澄んだ風に乗って鼻をくすぐる。
「僕は歩いて帰るから」
朔人は亜桜をタクシーの後部座席に押し込み、笑顔で手を振った。亜桜も窓を開け、力なく手を振り返す。
音もなく走り出した車のミラーに映る朔人は少しずつ小さくなっていく。
「またちょっと、パズルのピース埋まったかな……」
柔らかく白いシートにまどろみながら亜桜は呟いた。
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