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06足るを知る(3)

 水原が朔人のカルテ画面を開く。肝臓を描くグラフィック上に、診断用AIが病巣を赤く染め上げた。
「予想していた以上に、進行が速いの。もちろん、まだ命に関わるほどの広がりじゃないし、できる治療もあるんだけど……金沢さんがね、『僕はもういつ最期でも悪くはないなとも思っているんです』なんて言うときもあるのよ。笑顔でさ。それを見ていたら、医療って無力だなって感じちゃうのよね。医療が進歩したって喜んでるのも、まだできる治療はありますよって頑張っているのも結局は医療者だけで、患者さんや家族からは冷ややかな目で見られているのなのかなって思うことがあるの。『その治療を頑張っても、行く着く先にはどうせ死があるんだろう』って思われているんじゃないかって」
 水原はカルテから目を離し、亜桜へ首を振った。
「でもね、私には金沢さんが本心でそれを言っているのかわからないの。違うんじゃないかと思ってる。安楽死っていう逃げ場があるから、そこに安心があるから、苦しみを見ないようにしているんじゃないかって」
 亜桜は無言で頷く。頷くが、同意しているわけではなかった。朔人が、苦しみから逃げていると言いたいのだろうか? 水原の真意をつかみかねていた。
「誰だって、安心したいと思って生きているよね。でも、人間って生きている限り悩んで苦しむものなのかなとも思うの。仮に、いま50%の人が完治するのが、90%になる日が来たとしても苦しみはゼロにはならない。先生たちの緩和ケアもそうよね。体の痛みがあるときは『とにかくこの苦しみを楽にしてくれ』ってみんなが言うけど、いざそれがすっきり楽になったとしても、『人の役に立たなくなった自分はもう価値がない』とか『誰も自分の気持ちをわかってくれなくて苦しい』とかって悩み苦しむでしょう。自分で自分の苦しみを生み出しながらね。その果てに人は、安楽死っていうある意味シンプルな解決策にたどり着いたのかなって」
「……水原先生は、安楽死反対派だったんですか」
「いやいやー。反対とか賛成とか、そんなの面倒くさいもの。私はね、どっちでもいい派。その人が望む生き方があるなら、それが一番いいって思ってる。でもね、患者さんたちを見てるとね『いつまでも抗がん剤を続けてほしい』って言う人と、『安楽死で早く死なせてほしい』って言う人って、ベクトルが逆なだけで同じことを言っているんじゃないかって思うの」
「……おっしゃっている意味が、よくわかりません」
 水原は、「おっ」と小さな声を上げて、小さく笑った。
「うーん、まあこれは私の独り言みたいなものだからー……。でも亜桜ちゃんも、国家認定緩和医の仕事を続けていれば、どこかで似たようなことを考えるんじゃないかな。人の苦しみには際限がないってことにね」
 水原は、「よっ」という掛け声と共に立ち上がり、診察室のドアに手をかけた。亜桜もすっと立ち上がり、礼をして見送る。水原はちらと振り返りカラカラとドアを開けながら、
「昔からの言葉で『足るを知る』っていうのがあるじゃない。あれって本当にいい言葉よね。ほとんどの人がその心境に至ることがないって意味でね」
 そう亜桜に呟いて、医局に戻っていった。いつも明るいトーンの水原が、今日は暗く、重たい空気をまとっていたことが、亜桜には気がかりだった。
「疲れているのかな」
 今日の見学のお礼に、駅前の「パティスリー・レスポワール」のお菓子でも届けようか……と、水原の背中を見送りながら亜桜は思った。

 笹崎は、入院1か月を過ぎたころから奇跡的に食欲が回復していった。診断AIの判定も「レッド」に戻り、また元の介護施設に戻れることになった。
 結局、亜桜は笹崎に、息子二人の詳細について話をしないことにした。いま笹崎の中では、息子二人は幼いころからの可愛い子供たちという存在で「いる」。だとしたら、現実に二人が遺産を目当てに母親の早期死亡を願っていたなんてことを説明することが、笹崎にとって幸福につながるとは思えなかった。ただ、釈然としていたわけではない。「本当にこれでよかったのだろうか」という重りは心の奥底に残り、気持ちを傾け続けていた。
 介護施設からのお迎えが来たのは、病院の玄関脇に設えられた藤棚が細やかな雨に洗われる静かな朝だった。車いすに乗せられた笹崎は「太一郎がいないわ」「さっきまで近くにいたのよ」と多少のパニックになったものの、施設職員の「息子さんは、私たちの施設に先に行きましたよ」という言葉でようやく落ち着いた。
「……きれいな藤の花ね」
 玄関先まで連れられてきた笹崎は、おもむろに首を上に向けてポツリと呟いた。
「藤の花……お好きなのですか」
 亜桜は車いすの隣にしゃがみこんで、笹崎と同じ目線で藤棚とその奥に広がる照葉の森を眺めた。散らばった雨粒もひとつひとつが紫と緑に染まり、何百という小さな世界が透明なビニール傘の上に広がっていた。
「ええ、近所にそれは立派な藤棚がある公園があってね。よく息子たちと一緒に見に行ったわ。私たちにとっての『お花見』っていえば、桜じゃなくて藤だったのよね」
「それは、素敵ですね。私も、藤の花好きですよ」
 亜桜が微笑みかけると、笹崎も寂しそうに笑ってその節くれだってかさかさした手で亜桜の手を握った。
「それじゃあ、また外来で」
 亜桜がゆっくりと手を離すと、笹崎は小さく手を振って、施設職員に連れられて車の後部ドアから車いすごと乗り込んだ。約1か月前に意図的に転落させられた、その同じドアから。その時のことは、もう覚えていないのかもしれないけれど、また同じ車、同じ施設に戻っていかなければならない笹崎の後姿を見ていると、亜桜は少し胸が痛んだ。


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西智弘(Tomohiro Nishi)
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