07屈辱(2)
たたたん、と玉ねぎを切っていたところに、晨が椅子を押してすーっと近寄ってくる。
「こら晨、包丁使っているところに入ってきたら危ないでしょ」
「えーでも、ママが料理しているとこ見たい……」
晨は椅子によじ登り、亜桜の袖をつかんでまな板をのぞく。5歳も間近というところになって、だいぶ手がかからなくはなってきたとはいえ、まだまだママ離れはできていない。
「はあ……でも、おめめ痛くなってもしらないよ」
「おめめ? 何で?」
「玉ねぎ切ってるから。玉ねぎからおめめが痛くなるのがばーって出るんだよ」
晨はおおーっと言って目をキラキラさせたが、すぐにはっとした顔に戻りぎゅっと目をつむった。
「おめめ痛くなったの?」
「痛くならないように、つむってる」
「それだったら、そこに立ってる意味ないじゃん」
亜桜は、あははと笑い、たたたんと包丁を走らせた。
「はい晨、ちょっと袖離してー。玉ねぎ、フライパンに入れたいから。もう目も開けて大丈夫よ」
まな板を持ち上げると、晨は目をあけてぱっと手を離す。そして一度椅子から降り、ずりずりと椅子を押してまた登る。
「だからー。油がはねるから危ないってー」
亜桜が玉ねぎをじゅうじゅう炒めている手元を、晨は腕の影に半分隠れながら眺める。玉ねぎがだんだんと黄金色に色づいてくる。
「おいしそう……」
「そう、これが晨のおいしいおいしいになるからねー」
冷蔵庫に挽肉を取りに行くついでに、亜桜は晨をひょいっと抱っこしてリビングへ運んだ。
「えー、もっと見ーたいー」
晨は駄々をこねて転がったが、亜桜はひらひらと手を振ってキッチンへ戻った。
「もう少し大きくなったらねー。晨にも料理手伝ってもらうから」
「うん、料理したい!」
「はい、いい子ね。あと、15……20分くらいでできるから、もう少し待っていてね。ちょっとおばあちゃんの部屋に行って、そのこと伝えてきてくれる?」
晨はぴょこんと立ち上がり、廊下をたたたと駆けていった。亜桜は、パスタを茹でるお湯が沸いた音を聞きながら、トマト缶をぱかりと開ける。くつくつと野菜の煮える音が加わって心地よい。その音をひとつひとつを浴びて、亜桜は少しずつ、医者である自分が洗い流されていくような気がした。
ミートソースをおかわりして食べた晨と、貴子が寝静まったあと、亜桜はリビングで論文を読んでいた。運野に渡された余命予測アルゴリズムの論文。
「まだ読んでないの~? 今月にも診断用AIがアップデートされるけど、アンタは機械以下の能力のままでいいの」
運野に嫌味を言われた時の記憶がよみがえる。また軽く胃が痛くなってきた。そういえば、食後に薬飲んでいないや……と亜桜が立ち上がった時、玄関で扉が閉まりガチャンと音がした。
「ただいま」
亜桜の夫、長谷川蓮がネクタイを緩めながらリビングに入ってきた。酒を飲んでいるのか、少し顔は赤く、足元もフワフワしている。
「ああ、おかえり。ご飯は?」
亜桜は薬の準備をしながら、尋ねる。
「こんな時間なんだから、言わなくてもいらないってわかるだろう」
「ええそうね。でもいらないなら、いらないって一報欲しいわね。一応、あなたの分も取り分けてあるんだから」
「ああ、気を付けるよ……」
亜桜の言葉もうわの空で聞き、蓮は上着を脱いで廊下に出ようとした。
「今日のご飯は何だったの、とかってないの?」
「どうせ食わないんだから聞いたって意味ないだろう」
蓮は足を止めることもなく、風呂場に入っていった。
亜桜は無言のまま夫の背中を見つめていたが、その姿が見えなくなると胃薬を口に入れて水で一気に流し込んだ。そしてまっすぐキッチンへ向かい、取り分けておいたミートソースを皿ごと捨てた。
――ご飯どころか薬のことだって一言もないじゃない!
薬を飲んだにもかかわらず、また胃がキリキリと痛み出し、亜桜は深くため息をついた。
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