10夢であったら(3)
「金沢さん、取り乱してしまい申し訳ございません。では改めて、制度下安楽死を進めます」
亜桜はもう一度椅子に座り、震える手で注射器を握った。
「亜桜、今日はもういいよ」
亜桜が再びシリンジを押そうとしたその時、朔人の声が頭上から降ってきた。亜桜が驚いて顔を上げると、朔人は曖昧な表情で微笑んでいた。
「もう、いいって……?」
「うん、ちょっと緊張が解けちゃったし。亜桜にも無理させたくないし」
「私は、無理なんかしていません」
「してるよ」
「してないって」
亜桜がムキになって立ち上がろうとするのを、朔人の母が軽く制した。
「亜桜ちゃんね、本当にありがとう。あなたが朔人を思う気持ちも良くわかったわ。私も、亜桜ちゃんが注射器から手を離したのを見て、なんだかほっとしちゃったの。だから、私もまだ心の準備ができていなかったのかもしれないわ。だから、明日もう一度仕切りなおしたらどうかしらって、朔人とも話してたの」
「いえ、しかしそれは……」
「うん、それがいいよ。明日の朝。僕は待っているから。今度こそお願いね」
朔人の笑顔とは対照的に、亜桜は困惑した表情を隠しきれなかった。
五十嵐に促され、その日はとりあえず手続きを保留、ということになった。
「ただ、明日は私はクリニックの外来があって同席できないからね。一人で大丈夫かい」
五十嵐を玄関先まで見送り、亜桜は深く頭を下げた。
「はい。明日までに気持ちを入れ替えてきます。今日は本当に見苦しいところをお見せしました」
「望月先生も、今日は早く帰りなさい。しっかりと頭を冷やして。そうじゃないと金沢さんがかわいそうだろう」
「はい、おっしゃる通りです。申し訳ございませんでした」
体を折り曲げたまま、亜桜は消え入るような声で答える。
五十嵐がタクシーに乗り込むのを見届けて、亜桜はトボトボと医局へ戻り、帰り支度を始めた。病棟に行く気にはなれなかったし、赤垣にも今は会いたくなかった。
マンションまでの帰り道は、しとしとと降る秋雨に暗く濡れていた。薄闇に浮かぶ赤い傘を回しながら、亜桜は「どうして、どうして」と繰り返し呟きながら今日のことを思い返していた。
――手が、止まってしまった。
亜桜は自分の手を見つめる。
朔人の手を握ったあのとき。医者として冷静であったはずなのに、あの一瞬で「学生時代の亜桜」に戻ってしまったような感覚だった。蛇を見つめ、固まっていた幼い顔貌の朔人。その姿とベッドで弱々しく横たわる朔人の姿が重なったとき、「私がこの子の人生を終わらせるの?」という声が心の底から湧き上がってきた。
――人生を終わらせるんじゃない、彼の自由を守るのよ。
亜桜は心の中に浮かんできた声を必死に打ち消したが、その手は蛇に絡めとられたように、全く動かなくなってしまったのだった。
朔人の手の感触を思い出し、亜桜の右手は再び震えだす。亜桜は傘を投げ出して、左手で右手を抑えた。冷たい雫が髪を伝って、ベージュのニットの上で小さな玉をつくる。
「明日こそは、しっかりしないと。私しか、彼を楽にしてあげられる人はいないんだから」
亜桜は独り言をつぶやきながら、傘を拾い上げ、街灯が灯り始めた道を強い足取りで歩きだした。
夜半まで続いた雨は、朝にはすっきりと晴れた。
一方の亜桜は、夜中に何度も目を覚まし、寝不足で重たい頭で緩和ケア病棟に現れた。
「おはよう……みんな、昨日はごめんね。今日こそはしっかりやるから」
病棟スタッフに努めて明るく声をかけるも、なぜかみんな亜桜と目を合わせずにソワソワと落ち着かない。不思議に思いながら、ナースステーションに掲示された患者一覧に目を移すと――朔人の名前はそこから消えていた。
亜桜の顔からサッと血の気が引き、胸の奥から「えっ」という低い声が出る。患者一覧がある壁に近寄って、もう一度上から下まで氏名を確認したが、そこにはやはり「金沢朔人」の名前はなかった。
「ちょっと……金沢さん、どうしたの? 昨夜のうちに急変してしまったの」
亜桜が狼狽して夜勤明けの看護師に詰め寄ると、彼女は困った顔になって目をそらした。
「あの……、えっと急変は急変なのですが」
「何。何があったの。ああ、カルテを確認すればわかることよね」
亜桜はテーブルの上に置かれていたカルテ・タブレットを手にして電源を入れた。そして、昨夜の記録から金沢朔人の情報を検索する。そして、そこに書かれていた記録に、亜桜は衝撃を受けた。
23時21分、制度下安楽死を施行
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