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09カウンター(4)

「やあ、望月先生」
 亜桜がナースステーションでカルテ・タブレットを操作していると、監査医の五十嵐が入ってきて声をかけた。
「五十嵐先生? 今日は、どうされたんですか」
「いや、木村さんの最期を看取りにね。彼女は……今日だったよね」
 804号室の木村奈々は40代の胃がん患者で、1か月前から緩和ケア病棟に入院していた。主治医は運野。「できる限りたくさんのお金を、子供たちに残したい」という理由で、抗がん剤も中断し、また終末期医療を早々に切り上げることを希望した。部長の岩田や監査医の五十嵐は、「社会保障制度を利用すれば、お子さんたちの学費は心配ない」ということを理由に制度下安楽死の利用に反対したが、運野は半ば強引に手続きを進めた。最終的に、本人の意向が強かったため五十嵐も承認せざるを得なかったとのことだった。
 804号室へ入っていく制服姿の娘さんを、五十嵐は目で追った。
「自分が監査医として診察した患者の最期には、なるべく立ち会うことにしているんだよ。無理な日も多いけどね」
「そうだったんですね。律儀なんですね」
「う、うむ。まあ、ちょっとした約束というか誓いのようなものがあってな」
「へえ。『誓い』とか五十嵐先生っぽいですね。どんな誓いなんですか」
「……まあ、昔の話だ。運野先生はいらっしゃらないようだね。失礼するよ」
 五十嵐はそそくさとナースステーションを後にし、804号室へ入っていった。
「亜桜ちゃん、こんにちわー」
 五十嵐の背中を目で追っていた亜桜は、反対側から声をかけられ椅子の上で小さく跳びあがった。
「うわっ……。ああ、水原先生。先生はどうされたんですか」
「木村さん、私の受け持ちの患者さんだったから。お金が続かないからって治療も不十分になっちゃったけどね……。今日が最期って、えっと……そう、ご家族が連絡くれてさ。だから、ご挨拶に来たのよ」
 水原がなぜか少し慌てながら床に視線を落とす。
「そうなんですね。今日はお客さんが多いですね」
「あら、私のほかにも誰か来たの?」
 水原はかわいらしく首を傾げる。
「ええ、あの監査医の五十嵐先生って方が……。ご存知ですか?」
「ああ……もちろん。だって五十嵐先生は私が研修医だった時の指導医だったんだもの」
 思いがけない水原の発言に、亜桜は目を丸くした。
「えっ、どこで? 照葉でのことですよね。五十嵐先生って照葉のドクターだったんですか?」
「あら、知らなかったの? 岩田先生……は確かにそういうこと教えてくれないかな。もうかなり昔のことだけどねー。岩田先生が赴任される前の部長と一緒に緩和ケアチームとして働いていたのよ」
「そうだったんですか。あれ、でも前の部長先生って……」
「亜桜ちゃんはお会いしたことないでしょ。ほら、安楽死制度が出来るときに反対運動して照葉から追い出されちゃったから。五十嵐先生も一緒にね。ええと、何て名前の先生だったかな。眼鏡をかけて、ちょび髭の生えた……」
 亜桜が大学生だったときの記憶がよみがえる。眼鏡をかけて、ちょび髭の先生。父の痛みを一瞬で緩和してくれた先生。そして、父の安楽死への思いを全否定してくれた先生。
「……父の主治医だった先生です」
「えっ、そうなの! 今度は私が知らなかったわ」
「いえ、私も何度かしかお見かけしたことはなくて……」
「そうなのねー……じゃあ、運野先生もまだいらしていないみたいだし、ついでにちょっといいこと教えてあげる」
 水原はニコニコ笑うと、「ついてきて」と言ってナースステーションを出た。亜桜がその後を追っていくと、水原は病棟のレクリエーションスペースに面した、段ボールが山と積まれた場所の前で止まった。
「亜桜ちゃん、ここってなんだか知ってる?」
「えっ……ここって物置ですよね。レクリエーションに使う楽器類とか、イベント用の衣装とか……」
「そうね。今はね。でも、このスペースよく見たらちょっと変だと思わない? わざわざレクリエーションスペースに面したところに物置があるのも変だし、最初から物置として設計したなら、こんな風に荷物丸見えにしないで壁を作るでしょ」
 確かに、言われてみればこのスペース、元々は何かとして使っていたのを、今は使わなくなったので段ボールを置き始めたように見えてきた。
「ここもほら……、段ボールで埋まってしまっているけどよく見たらテーブルがあるでしょ。これって、何か見覚えがない?」
「これ……あ、カウンター!」
「ピンポーン! さっすがお酒大好き亜桜ちゃん。一発で大正解~」
「なんで緩和ケア病棟にカウンターがあるんですか?」
「それはね、この病棟を設計したのは前の部長先生と五十嵐先生なんだけど、その時に『白衣を脱いで患者さんと語り合える場所が欲しい』って言って、このバーカウンターを作ったって話よ。それで、五十嵐先生も月に何回かマスターをしていたのよ。どっちの先生の発案かは知らないけど、部長先生はお酒飲めなかったみたいだから、きっと五十嵐先生なんでしょうね」
「ええ~。五十嵐先生がバーマスターとかちょっと想像できないです……。緊張しそうじゃないですか」
「そう? 昔は冗談とかも言うような優しい先生だったのよ。ここも『バー・イガラシ』なんて呼ばれて、患者さんとかその家族とかが一緒にお酒飲んで繁盛していたのよ。まあ、照葉追い出されてからはずいぶん苦労したみたいだからね。その間に頑迷になった、なんて噂はよく聞くし。そんなのが耳に入ると、昔を知るものとしてはちょっと寂しいけどね」
 水原が、かつてバーカウンターだった板の縁を指でなぞりながら苦笑する。
「あ、やばい。そろそろ安楽死施行の時間になっちゃう。その前に木村さんにご挨拶しないと。亜桜ちゃんも、忙しいのにごめんね」
「いえ、貴重なお話し聞かせていただいてありがとうございました!」
 804号室の方へ早足で戻っていく水原の背中を見送りながら、亜桜は加藤のことを思い出していた。もし、加藤が生きていた時にこのカウンターのことを知っていたら。もっと早く白衣を脱いで加藤とざっくばらんに話ができていたら。もしかしたら、もう少し体力があるうちに加藤の気持ちが聞けたかもしれない。結城や、日本酒を楽しむ会のメンバー、そして『有明桜』のおかげで、ギリギリ間に合ったけれども。でも、今からでもまだ遅くはないのではないか。亜桜はしばらく、バーカウンターの板を見つめながら、そこに立ち尽くしていた。

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西智弘(Tomohiro Nishi)
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