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05忘れてしまえるものならば(1)

 子どものころ、読んだ絵本に出てくる魔法使いは西洋のおばあさんばかりだった。
 三日月みたいな顔に、しなびた茄子のような鼻。顔全体に皺が深く刻まれ、その眼を吊り上げて紫色のスープを大鍋でかき回す様はいかにも邪悪だった。
 亜桜は母・貴子に聞いてみたことがある。
「どうして日本には、魔法使いがいないの?」
 その時、貴子がどう答えてくれたかはよく覚えていない。日本には昔からオンミョウドウとかミッキョウみたいな魔法のようなものがあって……ってことを、小学生にもわかるように丁寧に教えてくれた気がしたけど、亜桜の興味はそんなところにはなかった。
――あの鍋の中には何の成分が含まれているのか。魔法というのはどのような原理でそのエネルギーを発生させているのか。そして、仮に魔法とその使い手が絶滅したのだとしたらそれはなぜなのか。
 亜桜はそんなことを、もっと子供くさい言い方で質問し続けたが、貴子の回答はどれもこれもファンタジーで、「ばかにしてるわ」と感じた亜桜はそれ以上聞くことを止めた。

「お父さん。どうして日本には、魔法使いがいないの?」
 その日の夜、仕事から帰ってきた父・健治が食卓につくのを待って亜桜は昼と同じ質問をぶつけてみた。
「亜桜、お父さん仕事から帰ってきたばかりで疲れているのよ」
 貴子がお椀を少し強めに置いたせいで、味噌汁が暴れて食卓にこぼれ落ちた。健治は黙って貴子のちょっと険しく歪んだ表情を眺めていたが、彼女が台所に布巾を取りに戻ったのを見送ってようやく亜桜に向き合った。
「亜桜、何で魔法使いがいないかを知りたいんだ?」
「いろいろと知りたいことがあるの」
「例えば?」
「うんと……、あのスープの中って何なのかとか……」
「ほう?」
 健治はにやりと笑って、味噌汁のお椀をゆっくりと持ち上げた。こぼれて溜まっていた汁が輪状にしみを作り、高台からぽたりと滴る。
「例えばお父さんは、この味噌汁には味噌が溶けているということは知っている。ダシが入っているということも知っている。具は……油揚げと長葱だな。それは、お父さんも味噌汁を作ったことがあるから知っているってことだ」
「うん」
 亜桜は軽く眉間に皺を寄せながら、健治の顔を見つめる。
「でもな。魔法使いのスープに何が入っているかなんてことは知らない。作ったこともなければ教わったこともない」
「大人でも知らないことがあるの。だってお父さん、先生なんでしょ」
「大人でも、先生でも、知らないことはたくさんあるぞ。むしろ、何でも知っているって思っている人の方がヤバいって。そうだな……魔法使いのことをどうしても知りたければ」
「知りたければ?」
「実際に、魔法使いに会って聞いてみるしかないな」
「だって、日本には魔法使いっていないんでしょ」
「どうして、いないってわかる?」
「え、いるの?」
「いるかもしれないし、いないかもしれない」
「何それ」
「亜桜が言っているのは、どこの世界の話よ。お前はまだそんなにたくさんの人に会ったことないだろ。狭い経験とか、本に書いてあることだけが世界じゃないからな」
 亜桜は叱られているような気分になり、口を尖らせて椅子に深く座りなおした。
「亜桜は魔法使いに会いたいんだろ」
「……うん。いるんだったらね」
「そうだな。亜桜が会いたいって思っているなら、そのうち会えるかもしれないぞ」
 健治はそう言って、いつものようにいししと笑った。
 そして、そんな話をしてから20年以上たった病院で、念願の「日本生まれの魔法使い」に会えるとは、亜桜はこのとき露ほどにも思っていなかった。

「はい、笹崎今日子。75歳。特に悪いところはありません」
 今年初の雪が、窓の外に舞う朝の緩和ケア病棟、817号室。ベッドの上で亜桜に向かい微笑む笹崎は、絵本からそのまま抜け出してきたかのような魔法使いの姿だった。ただ、そこはさすがに日本の魔法使いらしく、トレードマークの鉤鼻は想像していたよりも小さくかわいらしく、そのほっそりとした顔の真ん中にちょこんとおさまっていた。笑顔が深くなるにつれてあらわになる皺には、窓からの柔らかな光が差して静かに輝いていた。亜桜もつられて笑顔を作るが、その口元はぎこちなく引きつる。
「笹崎さん、初めまして。ご自身の病気のことは前の先生からどのように伺っていますか」
「はあ。好き嫌いは別にないですけどね」
「ええと、そうではなくて、病気。いま何の病気で、ご入院されたかを……」
 にこやかな魔法使いは、決して大きくとんがってはいない耳をゆっくり亜桜に傾けて頷く。
「いやですねえ先生、だから私は元気なんですって」
 笹崎は上品そうに、ほほほと笑った。
「すみません先生、もう少し話せる日もあるのですが」
 ベッドの向こう側で立っていた次男さんが申し訳なさそうに、笹崎の背中をさする。
「あー、いえ。大丈夫です。これからもいろいろと教えてください。笹崎さん、お昼ご飯は食べられそうですか?」
「ええ。ご飯は大好きですのよ」
 笹崎は目を輝かせ、ベッド上で軽く躍り上がった。亜桜が次男さんの方を向くと、大きく首を傾げ、困った顔になった。

 笹崎今日子、85歳。「認知症の終末期」との触れ込みで、介護施設から照葉総合病院へ紹介されてきた。もともと安楽死希望、とのことで開業の国家認定緩和医に受診していたが、認知症が悪化したために、その開業医のクリニックでは制度下安楽死が施せなくなっていた。それでもしばらくはその開業医が診療し、介護施設に入所後も訪問診療を継続していたが、最近「ご飯を食べなくなった」とのことで精密検査をしたところ、胃に小さながんが見つかった。そのためか、笹崎のパーソナルAIと接続された診断用AIが「イエロー」と判定し、照葉を受診することを勧めてきたのだという。そういった経緯で、開業医から「まあ確かにうちではこれ以上無理なので、AIが勧めるように照葉さんで診てもらう方がいいでしょう」と、入院となった次第である。
 その開業医が制度下安楽死を施せなくなったのには理由がある。それは、現行の安楽死制度では、各医療機関につき「1種類だけ」の安楽死方法を選択することが定められており、その方法が合わなくなったためだ。1施設1種類のルールは、施設内でのルールやシステムを統一することで、システムエラーを防ぐ目的と、患者側が施設を選ぶ際に混乱を招かないように、との配慮と国は説明している。

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西智弘(Tomohiro Nishi)
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