08その瓶は死を待っているのか(7)
加藤はこの10日間、比較的穏やかに過ごせてはいた。しかし、食事はほとんど食べられずに時折嘔吐し、また意識が悪化する時間が少しずつ長くなっていた。看護師2人の介助で何とかトイレには座っていたが、それももう限界になりつつあった。結城は「お酒を飲んでもらうの」と言っていたが、本当に飲めるのか疑問だった。
そして翌日。私服に着替えて加藤の病室に行った亜桜は、部屋の中がたくさんの顔ぶれにあふれていることに驚いた。結城さん、前田さんはもちろんだが、パン屋のおじさんや神社の神主さん、蕎麦屋の老主人など……みんな「日本酒を楽しむ会」のメンバーだった。加藤も驚いたらしく、いつもよりも意識もしっかりし、目を丸くしている。
「いやあ……みんなよく来てくれたなあ」
「みんなの都合が合う日が今日しかなかったのよ。ほら、亜桜ちゃんも来てくれたよ」
「おう。今日はセンセイじゃなくて心置きなく亜桜ちゃんって呼べるなあ」
――普段から「センセイ」なんて滅多に呼ばないじゃん、と思いながら亜桜もみんなの輪の中に入る。
「さあ、これで全員そろったからここで臨時の『日本酒を楽しむ会』開催するわよ。じゃあ前田さん、お酒出して」
「はい、今日は臨時ということでいつもみたいにたくさんのお酒は出せませんが、とっておきの1本をご用意しましたー!」
そう言いながら、前田は新聞紙にくるまれた四合瓶をベッドサイド・テーブルに置いた。
「じゃあ加藤さん、開封してもらえるかな」
前田が促すと、加藤が震える手で新聞紙をはがしていく。そして、そのラベルが現れたとき、加藤は「これ……!」と言ってどっと涙を流し始めた。結城も、前田も泣いている。亜桜も首を伸ばしてラベルを見て驚いた。
――『有明桜』!
「手に入れるの大変だったんだから。結城さんからのたってのお願いだったからさ。コレクターを探して、なんとか譲ってもらったんだよ」
「さあ、蓋を開けて。15年物――アンタが蔵を辞めた年の『有明桜』さ」
――えっ。
亜桜は息をのんだ。加藤が、『有明桜』の蔵人だったなんて……。
加藤はずっと涙を流し続け、蓋に手を伸ばすこともできない。結城が手を取り、添えてようやく開けることができた。
「ありがたい、ありがたい……」
加藤がこんなに泣く姿はこれまでに見たことがなかった。基本的には明るいお調子者で、他人の不幸や悲しみに全力で寄り添い、時にもらい泣きする場面は幾度と見たことはあったが。
「さあさ、皆さんグラスを持って……。加藤さんの代わりに、不肖・この前田が皆さんに注がせてもらいますよ」
亜桜もグラスを持たされ、琥珀色の『有明桜』を注がれる。加藤も、結城と一緒にグラスを持つ。そして結城に促され、涙に震えながらも口を開き始めた。
「本当にみんなありがとう。俺にとっては最後の『日本酒を楽しむ会』……。それをな、こんな最高の酒まで用意してもらって……。本当にありがたい……」
加藤はそこまでしゃべってまた声を詰まらせる。
「ほらアンタ、乾杯でしょ」
「わかってら」
「早く」
「おう。じゃあみんな次は、あの世で呑もう。乾杯!」
部屋の全員で唱和する。みんな、泣いていた。
「加藤はね、『有明桜』の最盛期、そして終末期までを見届けた蔵人のひとりだったのよ」
メンバーが帰り、加藤が眠りについたあと、結城が亜桜に話しかけてくれた。
「加藤は蔵人の中でも最古参だったから、頭を務めていたのね。でも、知っての通り後半は、社長の無理な経営が現場も圧迫するようになっていった。それで随分ケンカもしたみたいでね。最終的には追い出されるように蔵を出てしまったの。そしてその翌年に会社は倒産……。終盤にはもう資金繰りもメチャクチャだったみたいだから、いずれにしても再建は無理だったんだろうけど、加藤はそれをずっと心に病んでてね。『俺が日本の宝を潰した』『杜氏や蔵人たちを路頭に迷わせた』ってね……。実際には、蔵人たちも他の蔵で再就職できたみたいだったんだけどね。それで加藤だけが無職者のまま、川崎まで流れてきて、私たちと出会って……」
「そうだったんですか……。あの、私が初めて参加した会の時も、加藤さんの思い入れすごいなあと思いましたもの」
「ああ、あれね……。あの時はまだ前田さん知らなかったのよ。それで、『珍しい酒が手に入った』って喜んで出しちゃったんでしょうね。もちろん前田さん悪くないんだけど、会の後で、私から事情を話したの。だからほら、世間ではちょっと遅れて『有明桜』の古酒が出回り始めたけど、その後の会でも前田さんのお店でも『有明桜』は一切扱わなくなったでしょ」
確かに。亜桜が会に参加していたのは、実質2年ちょっとだったから他の企画が目白押しで、『有明桜』の会はあの1回だけなのかと思っていたが、お店でも扱っていないのは不思議に思ったものだ。蓮との結婚披露宴のときに、父、そして蓮との思い出のお酒としてゲストに振舞うため、インターネットで取り寄せたが、高価とはいえ個人が手に入れられる程度の酒を前田が商品にできないはずがなかった。
「加藤さん、みんなに愛されてたんですね……」
「ああ、加藤も、このまちのみんなも大好きだよ私は」
結城はそう言ってまた泣き始めた。
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