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02亜桜と朔人(1)

 道の向こうで、ひゃあっという声がした。

 20年前、薄暑来る中学への通学路。川崎は昔から都会だったけど、亜桜の通う中学はなぜか鬱蒼とした森に囲まれた小高い丘の上にあって、道は細く、舗装もまばらで入り組んでいた。昔、この丘には城があって、そこで働く武士の子弟たちが学んだ講武所の跡地がうんたらかんたら。歴史というものに興味がない亜桜にとっては、ただ単に通いにくくてしんどい道だった。
 叫び声が聞こえた方に亜桜が歩いていくと、真新しい学ランに身を包んだひょろっとした男の子が、道の真ん中で固まっている。近づいて行って、男の子の先を見ると――蛇だ。緑がかった褐色の、2mほどの蛇が、道を横切ろうとしたかたちで止まっていた。にらみ合う、男の子と蛇。もっとも、男の子の方はもう既にかなりの逃げ腰だったが。
「わあっ、蛇さん」
 亜桜が男の子の横に回って蛇に声をかける。蛇は、その鎌首をもたげ、時おり舌を出し入れしながら男の子の方を見つめていた。ふと男の子に視線を移すと、彼の白い顔は汗でびっしょり濡れていた。
「へ、蛇……」
 男の子は蛇からその細長い目を離すことができないようで固まっている。
――蛇に睨まれたキツネみたい。
 亜桜はぷっと噴き出した。
「な、何を笑っているの」
「え、だって……。君、蛇がこわいの?」
「え。う、うん。こんなの初めて見たから……」
「こわくないよ。かわいいじゃない」
「でも、毒があるかも」
「これはアオダイショウじゃない? 毒はないよ」
 亜桜はイートンジャケットの袖をまくり、手を伸ばそうとしたが、横からの「ひいっ」という小さな叫び声が彼女の動きを止めた。
「触るの? 嚙まれるかもよ」
「うんー……、まあそうなんだけどね」
 男の子が泣きそうな顔になっているのを見て、亜桜は手を引っ込め、呆れた顔で彼を眺めた。
「ああ、やめやめ! 君が怖がるからさ。捕まえてそっちに逃がしてあげようかなって思ったんだけど。その方が、ぎゃーって言いそうだし」
「ごめんね」
「なんで謝るのよ」
「……強いんだね」
「だーかーらー、強くなんかないって! 私にとって蛇はかわいいの! 本当は連れて帰ってうちの庭に放したいくらいなんだけど、君がぎゃーぎゃー言うから……」
「ごめんね」
「もういいよ。蛇が動いてくれないんだったら、別の道通ればいいじゃない」
 亜桜が呆れた顔で言うと、男の子の目が宙に泳ぐ。
「僕、この道しか知らないんだ……」
「えっ?」
「引っ越してきたばかりで」
「ああ、そういうことなのね。おうちはどこなの?」
亜桜が尋ねると男の子は震えながら、蛇の向こう側にある坂道を指した。
「あの下の川沿い? じゃあ、ちょっと遠回りになるけど来た道戻りましょう」
 亜桜がくるりと反転して歩き出したところで、男の子もようやく2、3歩後ずさりして、ぱっと駆け出してきた。
「君は、うちの中学でしょ?」
「え、うん……」
「1年生?」
「2年生……」
「えーっ。同じ学年じゃない。てっきり1年生かと思ったわ」
 切れ長で澄んだ目を除けば、童顔で色白の彼は同じクラスの男子たちと比べてもよほど幼く見えた。制服を着ていなければもっと下の子に見えたと思う。
「1年生じゃないよ……。4組の金沢といいます」
「あたしは1組。望月亜桜っていいます」
「アオ?」
「そう、アオ」
「アオダイショウのアオ……」
 金沢が露骨に嫌そうな顔をしたので、亜桜はかっとなって睨みつけた。
「違う! アオって、亜細亜の『亜』……わかる? 悪い、っていう字の心がないやつよ。悪い心がないってこと。いいでしょ? それにサクラの『桜』って書くの。わかった?」
「は、はい。わかりました」
 金沢はすっかりおびえてしまい、それから一言もしゃべらずに亜桜の後をついてきた。そして川べりの道に出たところで、
「あ、あの、僕の家、ここ」
と、金沢が立ち止まった。
「ああ、そう。それじゃあね」
――お礼の一言もないのね!
 亜桜は心の中でツッコみ、金沢が大きな門をくぐって中に入っていくのを横目に、スタスタと歩き出した。まあ、もう話すこともないだろうなと思いながら。

 しかしその翌日から、そのキツネ顔の男の子――金沢朔人は何かと理由をつけては亜桜の前にちょくちょく現れるようになった。最初は「蛇から助けてくれたお礼」といってわざわざ教室までお菓子を持ってきたり、「この前旅行に行ったときのお土産。亜桜ちゃんが好きそうかなと思って」とシルバーの蛇のキーホルダーを持ってきたり。幼稚園のころに読んだ昔話に、似たような話が載ってなかったっけ。
 辟易したのは、親同士が仲良くなってしまったことだった。「蛇からうちの子を救ってくれた女の子」として朔人の家の中で話題になり、彼にそっくりの母キツネがわざわざ亜桜の家まであいさつに来てくれたのだ。それをきっかけに、母親同士がすっかり仲良くなり、家にいても「朔人君」の話題を聞かされる羽目になった。
「朔人君のおうち、すごくいいじゃない! 資産家で、家柄もよくて~。亜桜もいい人を見つけたわよね」
「あの子とはそんなんじゃないし!」
 母はホクホクしていたが、それをいちいち否定するのもまた面倒だった。母親同士が仲良くなったことで「これ、うちの母が亜桜ちゃんの家に持って行けって」と、朔人が訪ねてくる名目を増やすことにもなってしまった。「親に」と言われたら断るのも難しい。そうして朔人の行動は次第に、学年の中でも噂されるようになっていった。

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西智弘(Tomohiro Nishi)
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