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09カウンター(2)

「……さっきの話ですけど、つまり亜桜先生は晨君が自己決定できる年齢まで待ちたい、って考えているんですね。親の考えとか都合で、勝手に片親を奪ってはいけない、ということですか」
 脱衣所の木製ベンチに座りながら、古びた扇風機の風を浴びていた赤垣が、湯船での話の続きを始めた。薄緑に極彩色の幾何学模様が大胆に描かれたTシャツが、細身の赤垣によく似合っている。
「うーん。そうね、そこまで難しく考えてなかったけど、そういうことだと思う」
 亜桜は濡れた髪をドライヤーで乾かしながら答えた。
「でもそれと、先生と夫さんが一緒に暮らすっていうのは別問題じゃないですか。愛情もないのに」
 自覚していないわけではないが、他人に「愛情もない」と改めて言葉にされるとムカッとする。亜桜は軽く咳ばらいをして答える。
「さっきもちょっと話したけど、蓮のことそこまで嫌いってほどじゃないのよ。5年近く連れ添った相手だしね。愛はなくても情はある、って言うじゃない。蓮も何だかんだ言って、私たちを頼りにしているしさ。結婚するって、そういうものなのかなって思ってる」
「そんなものでしょうか」
「そうよ。あなたはそもそも結婚したことないじゃない。凪さんだってさ、パートナーがいるんでしょ。彼女と結婚したいと思ったことないの?」
 亜桜が尋ねた瞬間、赤垣の顔色がさっと変わり、眉間に皺が寄り始めた。
「ええとですね、逆に聞きますけど、亜桜先生はそもそもどうして結婚したんですか?」
「えっ?」
「結婚しないと不安ですか? 結婚しないと子供を育てられないですか? 結婚しないと家族の絆はできませんか? 私と、いまのパートナーは確かに結婚なんてしていませんけど、一緒に幸せに暮らしていますよ」
 赤垣の声が次第に怒りの色を帯びていく。
「そ、そうだよね……」
「そもそも、私たちお互いに告白もしたことありません。お互いに好きになって、もっと一緒にいたくなって、その結果として二人で暮らすようになった、というだけです。『付き合おう』とか『今日から恋人だよ』って宣誓したり、それを誰かから認証してもらう必要ありますか? 一緒にいて、お互いに好きだって気持ちを言い合って、支えあいながらもお互い自由に生きていく……。それがパートナーだと私は思います。亜桜先生が結婚、という制度を利用することをとやかくは言いませんけど、私に『結婚したくないの』なんて聞くのはデリカシーフリーです」
「怒ったよね。ごめん」
「怒ってますよ! っていうか亜桜先生、なんで私がこんなに怒っているかわかってないでしょう?」
 赤垣が声を荒げて立ち上がった。
「え? え? デリカシーに欠けること聞いたからでしょう?」
「そうですけど! もっとあるんです。亜桜先生は国家認定緩和医で、仕事に誇りをもってやっているって言ってたから応援してたのに、全然わかってないんですもん」
「え、国家認定緩和医と関係ある話なの……?」
 赤垣は唇をかみながら少し黙っていたが、再びベンチに座りなおしてポツリと話し出した。
「……私の母親、安楽死してるんです。5年前に」
「えっ? そうだったんだ……照葉で?」
「違います。私の実家は仙台にあるから、そこの病院で。乳がんでした。まだ30代のころに病気になって。父は離婚してて連絡が取れなかったから、幼い私を抱えて不安だったと思います。でも、私が独り立ちするまでは、って15年も治療を頑張りながら育ててくれたんです。全身に転移したがんを、薬で抑え込んで、本当にボロボロになりながら。そして私が看護師になって、母が50歳になったとき『凪咲、もうお母さん頑張らなくてもいいかなあ』って言われたんです。なんかもう色々とショックで。私は生きていてほしかった。でも母には母の人生がある。だから私、『もう、いいよ』って言ったんです」
 赤垣は話しながらボロボロと泣き始めた。照葉で働き始めたころから知った仲で、懇親会の席で意気投合した赤垣。二人だけで食事に行ったり、こうして一緒に温泉も入るような仲になっていたけれども、そういえば赤垣の実家の話は聞いたことがなかった。
「当時、仙台には一人しか国家認定緩和医がいなかったから、選びようがなかったですけど、その先生は当たりでした。母の気持ちを受け止めて、長年背負ってきた重荷をひとつずつ降ろしてくれるような先生で。そして、家族の思いも、患者の気持ちとは別個に尊重してくれました。私、母には『もう、いいよ』って言いましたけど、その後も全然納得していなかったんです。そしたら、先生がそれを知って、個別に面談の機会を何度も作ってくれて。そこで、私と母は『家族』だけど、それぞれは『別の人間』で、私にとって母は『大切な人』なんだ、ってことが分けて考えられるように教えてくれたんです」
 亜桜は黙って赤垣の語りを聞いていた。家族というのと大切な人、というのは違う。今は一緒に過ごすという「選択」をしているから「家族」としてパートナーシップを結んでいるけど、その個々人はそれぞれが自由な独立した個人である……。言葉にすれば当たり前のことなのに、亜桜には新鮮に聞こえた。赤垣はなおも言葉を継ぐ。
「国家認定緩和医はですね、『患者の権利法』の下に個人の自由な意思が絶対的に尊重される世界を守る番人なんだ、ってその先生は教えてくれました。それなのに亜桜先生は、『患者の気持ちが一番大事』なんて口先では言うくせに、自分のことになると突然、結婚という枠に縛られて、もう好きでもない夫さんと一緒に時間を浪費して、しかもそれを晨君のせいにして正当化する。それのどこに亜桜先生個人の意思、自由な意思がありますか? 見せかけの『家族』という因習にとらわれて自由をないがしろにするような人に、国家認定緩和医が務まるとは私には思えません!」

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西智弘(Tomohiro Nishi)
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