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08その瓶は死を待っているのか(6)

 亜桜は別に、何かが「わかった」わけではなかった。運野の理屈もわからないし、赤垣の言いたかったこともわからないし、いま五十嵐に問われても「是」「否」と自信をもって答えられる気はしなかった。蓮との仲も相変わらず険悪で、昨日も深夜に帰ってきたと思ったら、今朝は気づいたらもうベッドにいなかった。公務員なのに。
 でも、朔人と偶然会ったあの夜。「急ぎすぎていないか」と指摘されてから少しずつ考えてみた。そして焦らずに少しずつ結果を出していこうと思ったら、ちょっと気持ちが軽くなったのだった。
――私は国家認定緩和医1年目、結婚生活だってようやく5年になろうかというところ。この手で、あの褐色の薬を握ったことすらない。蓮とだってまだやり直せるはず。幼い晨にだって父親は、家族は必要だ。だから今はまだ完璧でなくてもいい。結論を急がない、考え続けること。それを自分の芯に置いたから、私はまだ頑張れる。

「そう……加藤はやっぱり安楽死を望んでいるのね」
 面談室で、結城は頬に手を添えて嘆息した。
「ええ、2週間後くらいに、と希望されています」
 亜桜が静かに告げると、結城の目から涙がこぼれた。結城の隣に座った赤垣が、すっとティッシュボックスを差し出す。赤垣とは、あの言い合いをした日から何となく気まずくなり、仕事上のやり取り以外でほとんど話していなかった。しかしこの日は「私も、面談に同席していいですか」と、赤垣の方から亜桜に声をかけてきたのだった。
「……2週間後。それが加藤のいのちの時間なんですね」
「結城さんは、それを聞いてどう思われますか。やはり、安楽死施行をお止めになりますか」
 結城は涙をふきながら、しばらく黙っていたが、ゆっくりと口を開く。
「それはね、今でも反対は反対よ。加藤には、少しでも長く生きてほしい。その思いは変わっていない。でもね、この1か月くらい、ずーっとその話を二人でしてきてもね、彼の答えはいつも一緒。二人の未来を信じられないんだって。そのことに対しても私は怒ったけど、『そうやって、俺のことを愛してくれているって信じられるうちに死にたいんだよ』って言うの。なんだか、それを聞いてるとだんだんと私もね、彼の言いたいことがわかってきたような気がして……」
「どう、わかったのですか」
「うん……。彼が言いたいのはね、『今が最高、だから今死にたい』ってことなのかなって」
「今が最高、だから今死にたい……」
「そう。私はこの後、加藤がどんな状態になっても彼を大事にし続けられる自信があるわ。介護が必要なら、それもやるつもりだった。でも、彼の中ではそれは違うんでしょうね。私がどう思っているか、というよりも彼自身の中から見える世界が次第に色あせていくんだとしたら、それはもう彼にとっての『最高』じゃないってことなのよね。私は彼じゃないから、私がどう振舞っても彼から見える世界を変えることはできないでしょ」
 結城の言葉を聞いていて、亜桜にも加藤の気持ちが少しわかるような気がしてきた。結城は続ける。
「それにねこの前、家で血を吐いた日。あの時の様子をみて、ああもうこれ以上頑張らせない方がいいかな、って思ったのよ。私がね」
「……そうですか」
 結城は、半分あきらめたような、でもすっきりとしたような表情で軽く目頭を押さえた。
「では、安楽死の手続きを進めさせていただいてよろしいですね」
「ええ、亜桜ちゃん。あなたなら安心。よろしくね」
「はい。精一杯、つとめます……あ、あと結城さん、実はもうひとつご相談したいことがあって」
 亜桜は、加藤が最後にお酒を飲みたい希望があることを伝え、それを用意してもらえないかとお願いした。
「お酒、お酒か……。うん、それなら私も考えがある。前田さんに頼んでみるね」
 結城は立ち上がり面談室を出ていった。赤垣もすっと立ち上がり、結城のあとを追おうとした。
「あ、ちょっと凪さん……。何か、言いたいことがあるの?」
「いえ、別に何もありません。私、結城さんのお話をもう少し伺ってきますので、失礼します」
 そのまま足早に面談室を出ていく赤垣の背中は、いつもより刺々しくはなかったものの、亜桜の心にはざらっとした感触が残る。
「急がない、急がないよ」
 椅子に少しのけぞって、亜桜は独りごちた。

 それから10日後の夕方、結城からの外線電話が亜桜に入った。
「ああ、亜桜ちゃん。忙しいところごめんね。明日、亜桜ちゃんの仕事終わってから、ちょっと時間もらえない?」
「どうしたんですか? 急に……」
「いいから。明日じゃないとダメなのよ。ほら、加藤がお酒飲みたいって言っていたでしょ。あれをやるのよ」
「は、はあ……」
「亜桜ちゃんにも立ち会ってほしいの。何時からならいい?」
「え、えっとじゃあ18時ころで……」
「OK、18時ね。白衣じゃダメよ。私服で加藤の部屋に集合ね」
 勢いで承諾してしまったが、「明日じゃないとダメ」って何なんだろうか。明後日には再び五十嵐の監査が入る。それで「問題なし」と判定されれば、あとはもういつでも制度下安楽死を施行できる。薬も手配した。警察への事前連絡もした。撮影機材も準備した。約束した2週間後――つまりあと4日で、亜桜は安楽死を行うつもりだった。

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西智弘(Tomohiro Nishi)
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