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04運野、吼える(1)

「あっ、望月先生! 807号の吉塚さん、朝から呼吸苦が楽にならないんです。一度診てもらえませんか?」
 朝、出勤して医療用AIフォンのスイッチを入れるや否や、病棟からのSOSが鳴る。吉塚というのは亜桜が担当している60代男性の肺がん患者だ。昨日まではモルヒネの持続皮下注射で、痛みも呼吸苦も安定しており、今日から内服薬へ変更しようかと考えていたほどだった。何か、イレギュラーなことが起こったに違いない。亜桜はAIフォンを耳に当てたまま、すぐに白衣をまとって医局を飛び出した。
「朝からって、いつから?」
 廊下を走りながら、状況確認をする。
「朝6時くらいからでしょうか。急に苦しみだして……」
「当直医はどうしたの?」
「もちろん連絡しましたが、『モルヒネ増やしておいて』という指示をもらっただけで……」
「診察は? 検査は?」
「お願いしましたけど、『肺がんの患者でしょ、苦しくなるのは当たり前でしょ』っておっしゃって」
――北部病院からのバイト医者か。
「OK、わかった。もうすぐ着くから」
 亜桜は電話を切って緩和ケア病棟のエリアに入る。病棟の廊下で、カルテ・タブレットを看護師から受け取り、807号へ。病室の外にまで聞こえるゼーゼーという喘鳴。
「吉塚さん、どうしました」
 室内に駆け込むと、吉塚がベッドに体を起こして肩を上下させ、あえいでいた。
「あ、先生、もう、苦しくて。楽に、して、ください……」
 最後は泣きそうな声になりながら、吉塚は叫んだ。すぐに聴診――右肺の音が遠い気がするが、確信はもてない。
「投影板ちょうだい」
 亜桜が指示を出すと、看護師がさっと一枚の板を持ってくる。
「OK、あなたプロテクターつけて。私にもね」
 もう一人の看護師が、板を持つ看護師と亜桜にエプロン状の放射線防護プロテクターをかぶせた。亜桜は吉塚の胸に向けて、カルテ・タブレットをかざす。
「X-rayモード起動。はい、離れて。放射線出すわよ」
 亜桜は周囲を見渡し、プロテクターをつけた二人だけが残っていることを確認すると、「OK、照射」と告げて、カルテ・タブレットのスイッチを押した。その瞬間、画面上に胸のレントゲン写真が浮かび上がる。
「はい、右の気胸! 穿刺、ドレナージしましょう。メスと麻酔、あとペアンとチューブ。清潔野つくるからね……。必要なもの、わかるわね? 大至急で!」
 亜桜の指示で看護師が駆け出す。
「吉塚さん、右の肺に穴が開いて、空気が胸の中に漏れています。そのせいで肺がつぶれてしまって急に苦しくなったんです。なので、今から胸に管を入れて、空気を逃がす処置をしますからね。すぐに楽になります」
「はい、何でも、いいから、早く、楽に……」
 亜桜が吉塚に説明している間に、看護師が道具を抱えて走ってくる。
――いいよ、早い!
「はい、手袋ちょうだい。ここに道具広げて、注射器も落として。OK、麻酔薬ちょうだい。リドカインね。そのチューブもメスも全部ここに落としておいて」
 亜桜はテキパキ指示を出しながら、吉塚の胸を消毒する。
「はい、吉塚さん。これから麻酔しますよ。針が刺さるのでチクッとしますがちょっと頑張ってください」
 右胸に肋骨を確認して針を刺し、麻酔薬を流しいれる。注射器をメスに持ち替え、麻酔薬が効いていることを確認してから皮膚を小さく開く。そうしてできた穴に、ペアンを差し込み、穴を広げていく。
「少し、押される感じがしますからね」
 吉塚に声をかけながら、亜桜は胸の奥にペアンの先端を進めていく。そして、最後の膜を破ると、ボンっと音がして胸の中から空気が漏れてきた。すかさず、その穴にチューブを差し入れる。
「OK、このチューブの先端、バッグにつないで。どうですか、吉塚さん。大丈夫ですか。もうちょっとで処置、終わりますからね」
「あ、先生。少し、楽に、なってきました……」
「ああよかった。空気が抜けて肺が膨らんできたんでしょう」
「ありがとうございました……」
「よし、じゃあ後はチューブの固定お願いね」
 わずか10分――。看護師に最後の指示を出し、亜桜はナースステーションに戻った。

「おはよう、望月先生。なんか朝から大変だったみたいだな」
 岩田が声をかけてくる。亜桜は手を洗いながら、岩田を睨んだ。
「大変なんてものじゃないですよ……。いや、気胸は仕方ないのですが、問題は北部病院からのバイトの医者! あれ、苦情入れた方がいいですよ」
「あ~、看護師から聞いたけどね。確かにちょっとお粗末な対応だったなあ」
「ちょっとお粗末、どころじゃないです。10分で楽になるはずが、2時間ですよ。に・じ・か・ん!」
「ん~、まあ向こうの診療部長にはひとこと言っておくけど。でもそれでこちらへの医師派遣止める、なんて言われたら僕らも困るからなあ。君だって、お子さんが小さいんだからそんなに何度も当直はできんだろう」
 亜桜は言葉に詰まった。確かに、この病院にはそもそもたくさんの医師がいない。手術や放射線治療も、常勤医だけでは回せないので、北部病院から定期的に応援が来ている。そして当直勤務も、月に10日ほどは外部の医師に頼らざるを得ないのが現状だった。
「ほら、それにね。彼らだっていろんな科の先生たちなんだから。毎回、緩和ケアに精通した医師が来てくれるとは限らんぞ?」
「まあ、そうですけど……。でも気胸の診断なんて、内科医なら誰でも……。そもそも診察もしないことが論外なのでは」
「ははは、その通りだな。だから、その点についてはきちんと報告しておくから」
 岩田は逃げるように回診に出ていった。

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西智弘(Tomohiro Nishi)
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