09カウンター(1)
梅雨明けの温泉棟に、蝉の声がチー、チーと遠く響く。
――初鳴きかな。
湯船に微かに届く声を聞きながら亜桜は、昨日もこの声が耳に入ってきた気もしていた。
隣で湯につかる赤垣は、水面を眺めながら時おり肌を手でこすっている。褐色の水滴が肌に弾かれて、また湯船に還っていく。
「今日は誘ってくれて、ありがとうね」
沈黙に耐え切れなくなった亜桜が話しかける。
「いえ、こちらこそ宿直明けに付き合って頂いてありがとうございます」
固い。雰囲気が、固い。赤垣が何を考えているのか、どう切り出していけばいいのかがわからない。うーんと亜桜が悩んでいると、赤垣はざあっと立ち上がって窓を開いた。
「いい、風ですね。こっちのほうがいいですよ」
半開きになった窓から、初夏の匂いが流れ込んでくる。大きく息を吸い込んで少し笑顔になった赤垣に、亜桜は安心した。
「そうね。気持ちいいけど、覗かれないかな」
「ですね。お湯の中に入っちゃえば見えないですけど。あ、こっち側に寄れば死角になりそう」
そう言って、赤垣は亜桜の背中を押す。誰もいない湯船の端っこで二人は体を寄せ合った。
「加藤さん、亡くなられてしまいましたね」
「うん。でも、最後まで笑ってた……。結城さんも、泣いてたけど笑ってた。もちろん、安楽死って終わり方でもよかったと思うけど、ああいう終わり方も良かったんじゃないかな、って思ったよ」
赤垣が寂しそうな表情で沈黙する。天井から水滴が垂れて、湯に波紋が広がっていく。
「亜桜先生、私が『どうして二人を放置するんですか』って言ったこと覚えています?」
広がってきた波紋を手で受け止めながら、赤垣は再び口を開いた。
「うん、もちろん覚えてるよ。今日はその話で誘われたんだと思ってたし」
「私あの時、亜桜先生と結城さんが、加藤さんを責めてるように感じたんです」
「責めて……、私も?」
意外な指摘に驚いて、亜桜は赤垣の横顔を見た。
「ええ、先生も。先生、笹崎さんのときは息子さんたちが何と言おうと『本人の意思が最優先です』って闘っていたじゃないですか。でも、どうして加藤さんのときは患者本人ではなく結城さんの肩をもったんですか?」
赤垣に詰め寄られ、亜桜は首を傾げる。
「えっ……? 結城さんの肩持ったかな。中立のつもりだったんだけど」
「先生が中立になったら、加藤さんが結城さんに一方的に責められるじゃないですか。実際、そうなっていましたし。だから私、どうして二人、特に結城さんを放置しておくんですかって言ったんです」
赤垣は呆れたようにため息をついた。
「おっ、あれ? 言われてみればそうか」
「そうですよ。先生は、中立という建前で二人を野放しにして、結果的に加藤さんを責めたんです。警察モノで言うと『未必の故意』ってやつです。加藤さんは意志も強かったし、二人に責められても動じなかったでしたけどね……。最終的に『安楽死しない』と決めたのも、確かにいろんな影響は受けたと思いますけど、ご自身の自由な意志で決められたと思います」
亜桜は無言になり、考え込んだ。
「結城さんの愛情の強さに、私が感化されちゃったのかなあ。結婚していなくっても、あれだけ強い絆で結び付いている二人だったから、もう少し二人で理解しあえたりだとか、一緒に過ごせる時間を長くできないかなって考えてしまったのかもしれないわ。うちみたいに、結婚していても仲が良くない夫婦もいるのにね」
亜桜が苦笑しながら自虐的に言ったが、赤垣は笑うでもなく、むしろ真剣な表情になって亜桜に顔を向けた。
「そう、そのことも聞きたいと思っていたんですよ」
「え、そのこと……って?」
「亜桜先生と、夫さんのことです。先生は以前から、夫さんとうまくいっていないってずーっと話されていましたよね。少なくともこの2年くらいはずっとです」
「そんなに愚痴ってたっけ」
「ええ。でも私は不思議でたまらないです。そんなに仲が良くなくて、年単位で改善しない関係なら、どうして別れないんですか」
赤垣の突拍子もない提案に、亜桜は驚いて声のトーンが上がる。
「無理言わないでよ。晨もいるからさ」
「晨君がいるから別れられないんですか」
「そうよ。確かに、夫とはあまりうまくいっていないけど、別に浮気とかしているでもないし、金遣いが悪いとか暴力とかで生活を壊されているわけでもない。休日とかは晨を連れ出して遊んでくれたりもするし、晨も蓮が大好き。そのうち晨が大きくなって、大人の世界のこともわかるような歳になってさ、その時まで今の状況が変わらなかったら……離婚について家族で相談しようかな、って思ったことはある。ほら、それくらいの年になったら晨も姓をどちらにするか決めないといけないしさ。でもいまは晨がまだ小さいから、父親が必要だから、晨が大きくなるまではこのまま我慢しようと思ってるの」
赤垣は、亜桜の考えを聞いてしばらく黙っていた。そのうち「熱くなってきたから、あがりませんか」と赤垣に促されて、亜桜も湯船を出た。
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