00プロローグ
病室は静寂だった。
ベッドに横たわる患者がいる。その家族もいる。看護師がいる。そして男女二人の医師がいた。
全員の目は、医師のひとり、その毛むくじゃらの奥にシミが浮き出た手が握る注射器に注がれて動かない。褐色の液体が詰まったそれは、患者の腕に刺された針に透明なチューブでつながれ、投与のときを待っていた。
「それでは、はじめます」
医師の野太い言葉が空気を破り、褐色の液体がゆっくりとチューブを進んでいく。
1秒、2秒、3秒……
かすかに聞こえていた、患者の息遣いが消える。それでも医師はゆっくりと、注射器を押し続ける。
15秒、16秒、17秒……
全ての液体が無くなったあとも、医師は座ったまま。その重たそうなまぶたの奥の瞳で、しばらく患者の顔を見ていた。そして不意にすっと立ち上がり、ポケットから仰々しく聴診器を取り出して心音を確認し、瞳孔に光を当てる。
「16時33分、死亡を確認しました」
医師が家族の方を向き、お辞儀をした。少し遅れて、もう一人の若い女性医師と看護師も頭を下げる。
「ありがとうございました」
家族もまた深々と礼をし、部屋にいた全員はまた静寂に沈んだ。
*
「君が見学をしたいというなんて珍しいね、望月先生。安楽死の仕方なら、研修時代に何度も見ただろう?」
病室から出てナースステーションに戻る廊下は、傾きかけた晩秋の陽が乱反射して万華鏡のように輝いていた。その光の真ん中を歩きながら、緩和ケア部長の岩田洋平が後ろを振り向いて声をかける。少し遅れて歩いていた、望月と呼ばれたその女性医師が小走りに追いつく。
「ええ、確かに何度も拝見しました。でも、これから自分自身であの現場を取り仕切るのだと思ったら、もう一度確かめておきたいと思って」
「確かめる? 手順をかい?」
「ええ、それに現場の空気を」
「空気?」
「ええ、張り詰めた、刺さるような空気、それに……」
望月は、立ち止まり考え込む。まくり上げた白衣の袖からすらっと伸びた腕に、澄んだ夕日の色が重なって、染まる。
「ははは、確かに臨場感っていうの? そういうのは国家研修でも習わなかっただろうからねえ。新任の『国会認定緩和医』としては、気合十分というところか」
岩田は望月をおいて、その毛深い手で頭を無造作に搔きながらナースステーションに入っていった。それと入れ替わるように、カルテ・タブレットを抱えた看護師・赤垣凪咲が、駆け出してくる。望月より少し年下の彼女は、看護師経験は10年に満たないものの、来年には病棟主任に抜擢されるとの噂もある優秀な看護師だ。そして、望月にとっては病院の中にいる気の置けない友人の一人でもあった。
「あっ凪さん、お疲れさま。これから死後のケア?」
「お疲れ様です、亜桜先生。ええ、これから先ほどの患者さんのケアを手伝おうと思って」
「そう、よろしくね」
手を挙げて微笑んだ望月に、赤垣はすっと身を近づけ「この前の温泉、楽しかったですね。また行きましょうね」と囁いた。肩までの、少しくるりとうねった髪が揺れて、ハーブのような爽やかな香りが鼻に触れる。
「うん、また今度ね」
望月は少し苦笑いをうかべながら体を一歩下げたが、赤垣は気づいていない素振りで「約束ですよ」と告げた。病室へ向けてまた駆けていく――というところでピタリと止まり、くるりと振り返って戻ってきた。
「それから先生、明日の山本さんのモルヒネが処方されてなかったですよ。このタブレット貸してあげますから5時までに入れといてくださいね」
赤垣は責めるような口調で言い、カルテ・タブレットを押し付けてまた走っていった。望月は「温泉の話よりも仕事の話の方が優先でしょうに」と思いながらも、はいはーい、と軽く返事をしてナースステーションへ入った。
岩田の隣に座ってカルテ・タブレットを開くと即座に虹彩がスキャンされ、認証。
ドクター:望月亜桜/モチヅキアオ
画面に表示された承認ボタンをタップすると、担当患者のリストがずらっと並んだ。
「山本さん、山本さんはっと……」
画面をスクロールしてもう一度タップ。処方画面を開く。
「モルヒネの量が、足りないのか?」
隣で安楽死後の書類を書いていた岩田が、亜桜の画面を横目で見て声をかける。
「いえ、単なる処方切れです。山本さんの痛みはコントロールできています」
「モルヒネは、古い薬だからな。扱いが難しくないか?」
「いえ、私はモルヒネ好きですけど」
亜桜のセリフに岩田はぴたりと手を止めて首を向け、
「えらい」
と言った。
「な、何がえらいですか?」
岩田からの唐突なセリフに若干狼狽し、亜桜は聞き返した。
「古いってことは安いってことだ。安い薬を使ってくれるとこの緩和ケア病棟の利益が大きくなるからな」
亜桜は、はあと言って苦笑いで応じた。この男、悪い医師ではないのだが、照葉総合病院へは経営改善を目的に招聘されたらしく、売り上げとコストのことに口やかましいことが難点だった。本当は、このカルテ・タブレットだって時代遅れの代物なのだ。しかし数年前に、平成時代の終わり頃からずっと使っていた据え置き型の電子カルテシステムをようやく一新してくれたばかりだった。そんな状況で、最新型の3Dカルテシステムが欲しいなんて要求が、岩田をはじめとした経営陣に通じるはずがなかった。
亜桜は、低い唸り声をあげる骨董品崩れのタブレットを、指の腹でなぞる。
「それに引き換え運野先生は、新薬ばかり使いすぎるから困る。この前も、803号室の斎藤さんに、あのアナリラレンを3本も使ったんだよ! それだけで何万円だよ!」
「あのー……、岩田先生。ナースステーションで部下の悪口はちょっと」
ヒートアップしはじめた岩田を亜桜がなだめると、岩田は少しバツの悪い表情になる。
「う、うん。まあ、運野先生も頑張ってくれているしね。それに彼には――別のことで稼いでもらっているから」
岩田は少し暗い表情になり、書類仕事に戻った。亜桜も返事はせず、モルヒネ量のチェック作業を続けた。
「岩田先生、警察の方がお越しになっていますが……」
ナースステーションに医療事務スタッフが顔を出し、その来客を告げる。
「やれやれ、面倒な奴らが来たな」
岩田は、頭をぼりぼりと搔きながらのっそり立ち上がった。
「岩田先生、聞こえますよ」
亜桜が焦ってひそひそ声でたしなめると、岩田は口元で笑った。
「いいんだよ。いつも嫌味を言って帰るのが彼らの仕事なんだから。俺たちは制度に則って粛々とやっているのにねえー。一時といえども犯罪者扱いというのは気に食わないじゃないか。きっと彼らは安楽死制度反対派の急先鋒だったんだよ」
岩田は悪態をつきながら、時間を稼ぐようにちまちまと歩いて部屋を出ていった。これから岩田は警察の取り調べを受ける。それが、国が定めた安楽死制度の決まりだった。しかし、それで逮捕・検挙された医師はこれまで一人もいない。だから、ルーチン作業のように書類の確認だけをして帰ればいいものの、この病院を担当する刑事の中に安楽死制度に反対するものがいて、やり取りが大変らしいのだ。
「そのうち、自分も経験するのよね。警察の取り調べを」
警察の前に座る、自分の姿を想像して亜桜は少し震えた。
*
亜桜の医療用AI(人工知能)フォンが鳴ったのは、モルヒネの伝票を出し終わって夕方の回診を始めようかというときだった。AIフォンのディスプレイに、腫瘍内科医の水原莉乃医師の顔写真が浮かぶ。
「はい、望月です」
「ああ、望月先生? いまちょっと大丈夫かしらー?」
電話機を耳に当てると、トーンが高く陽気な調子の声があふれだす。
「はい、今から回診しようかと思っていましたが、どうしましたか?」
「あのね、望月先生って国家認定緩和医の資格とったのでしょう? だったら、一人診てほしい患者がいるんだけどなー」
「安楽死を希望されている、ということですか?」
「そうなのよ。今すぐじゃないのよ。しばらくは、私のところで抗がん剤をすることになるから。でもね、早めに顔合わせして一緒に診てもらえた方がいいかなーって。ほら安楽死制度を使うためには最低診療期間っていうのもあったじゃない……。ええと、何か月だっけ?」
「3か月です」
「あれ、3か月? そんな短くていいのー。じゃあまだご紹介しなくていいかな」
「いえ、診ます。診させてください」
国家認定緩和医の資格を取得して最初の安楽死希望者だ。ぜひ診療したい。それに、水原には腫瘍内科医として、そして職場の先輩としてこれまでずっとお世話になってきた恩がある。ここらでひとつくらい返しておかないと、もうお腹がいっぱいなのだ。
「ああ、そう? ところで国家試験って大変だったー?」
水原のきゃぴきゃぴした声が電話からあふれ、亜桜は少しだけ電話機を耳から遠ざける。
「ええ、大変でしたよ。特に1週間の泊まり込み研修が……。子どもがまだ小さいもので、母に預けて出たんですが母も大変だったようで」
「ありゃあ。確かに、子供がいる親向けのシステムじゃないわよねー」
「そうなんですよ。あれは絶対におかしいですね。国に資格者を増やす気がないとしか思えません」
「夫さんに任せられなかったの?」
「水原先生、知ってるじゃないですか……。夫の話はしないでください」
「あははー。まあそうね。ごめんね」
「私の話はいいんですよ……。患者さんの情報を教えてもらえますか?」
亜桜が電話に向かって聞くと、水原の気配がすっと遠のいた。電話の奥の方で「時間ある?」「大丈夫?」などと話す声が聞こえる。そして水原の気配が戻ってきたと思ったとたん、彼女は
「じゃあ、患者さんまだ時間あるっていうから、いまから外来に来てよー。就業時間オーバーで申し訳ないんだけどー」
と、無邪気に亜桜を呼んだ。亜桜は驚いて思わず電話を耳から離し、ディスプレイに浮かぶ水原の写真に向かって叫んだ。
「えっ、いまそこに患者さんいるんですか?」
さっきまでプライベートな話をしていたのにだ。
「ええ、いま私の診察終わったとこなの」
「それを早く言って下さい!」
亜桜はすぐに電話を切り、外来に向かって駆け出した。水原はよき先輩だし頼れる医師ではあるが、ときどき見せる天然さにはついていけない。
腫瘍内科外来に着くと、診察室の中から話し声がした。ここかな、とノックをする。
「はーい、望月先生?」
「はい、望月です。失礼します」
亜桜が入ると、もう少しで40歳……には見えないスラっとした長身の女性医師と向かい合い、濃紺のテーラードジャケットを羽織った30代とおぼしき男性が座っていた。「この男性が患者さんかな?」と、亜桜は彼に向かって軽く頭を下げる。
「はいこちら、カナザワサクトさんね。カナザワさん、こちらが先ほど話していた国家認定緩和医の望月先生」
――カナザワサクト……金沢、朔人……?
聞き覚えのある名前に顔を上げてよくよく見ると、確かにそこには亜桜がかつて知っていた「金沢朔人」が座っていた。忘れもしない、このキツネのような細い目。最後に会ったときに比べると痩せて、もともと白かった肌には青みがさし、「元気そうね」とは到底言えなかったけれども、亜桜に向けた笑顔は昔と何も変わっていなかった。
「ああ、望月先生って亜桜のことだったんだ。久しぶり」
「あああ、さ、朔人? どうしてここに……」
いるはずのない人が座っている。しかも、水原が担当するということは、がんということ? どういうことなの……。思考がぐるぐると回る。動揺を抑えるのに精いっぱいで、血液のほとんどが抜けてしまったように冷たくなった脚は、いつその膝を折ってもおかしくなかった。
「あら、知り合い?」
水原が亜桜の顔を覗き込み、怪訝な表情をつくる。
「お、幼馴染です……」
深呼吸をひとつして、ようやく、そして咄嗟にその言葉だけを返した。
「あら、幼馴染……。だったら望月先生、担当はしないほうがいいのかな……? ちょっとつらいでしょう?」
水原の、無邪気な中にも「察し」の入った笑みが恐い。
「運野先生に、代わってもらいましょう」
電話を手にした水原を、亜桜は「待ってください」と言って止めた。
「大丈夫です。『ただの幼馴染』ですから。私が担当します」
水原は少し困った顔をして、朔人の方をチラッと見た。
「水原先生、僕も大丈夫です。よろしくお願いします、センセイ」
朔人が静かに微笑むので、水原も少し表情を崩して亜桜の方を向いた。
「望月先生は、本当に大丈夫?」
「ええ、任せてください」
亜桜は朔人に向き直り、いつも患者にしているよりも深々と頭を下げた。
「私が朔人を、いえ金沢さんを担当いたします、国家認定緩和医の望月です。これからよろしくお願いします」
「僕は、亜桜に安楽死させてもらえるんだね」
亜桜の頭頂部を、細い目をさらに細くして眺めていた朔人がしみじみと呟く。
「望月先生です。金沢さん」
亜桜は頭を上げ、朔人の顔を強く見据えた。水原がずっと隣でニコニコしているのが気になって仕方ない。
「私が必ず、金沢さんを安楽死させて見せますからね」
亜桜がそう言うと、朔人はその瞳を一瞬大きく見開いて笑った。
「それが、初対面の『患者の金沢さん』に言うセリフでしょうか」
亜桜の顔は真っ赤になったが、軽く咳ばらいをした後、診察室の椅子に腰かけた。
「そ、そうね。ごめんなさい。じゃあまずは、あなたがどうしてここに来ることになったか、聞かせてくれるかしら?」
「聞かせてください、でしょう? 望月センセ」
朔人にからかわれ、亜桜はさらに赤くなった。もう今すぐにでも安楽死させてあげましょうか? という思いが、亜桜の心をよぎった。
国家認定緩和医・望月亜桜。まだその手で安楽死を施行したことはない。
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