07屈辱(8)
「今日、歩美が来るんだってな」
「ええ、ようやく結城さんに話ができますよ」
嫌味たっぷりに亜桜が言うと、加藤はばつが悪そうに目をそらした。
「結城さんに、私からお話しして大丈夫ですね?」
「ああ……歩美もわかってるさ。大丈夫……。あ~あなんだか眠くなってきた」
「まだ朝ですよ」
加藤は目をつむり、バレバレの狸寝入りを始めた。加藤の中では「医者の望月先生」というより「日本酒好きの亜桜ちゃん」という認識が強いのか、どうも軽く見られている気がしてならない。
その日の午後、結城が緩和ケア病棟に来棟した、との報を看護師から受け、面談室に案内してもらった。
「結城さん、ご無沙汰しております」
黒のパンツに、クリーム色のブラウス、ニットカーディガンをまとった結城は40代後半くらいのはずだが確かに若々しく、お世辞にも加藤と釣り合っているとは思えなかった。
「亜桜ちゃん、本当にお医者さんだったのねえ。白衣着ていると見違えるわ」
結城は、椅子に座ったままでふふふと笑う。亜桜も正面の椅子に座って軽く礼をする。
「結城さんは、お変わりなく」
「そんなことないわ。もうおばあちゃんよ」
結城は手に目を落とし、自嘲気味に微笑む。
「それで、今日お越しいただいたのは……」
「ええ、彼はどうなの?」
「今回のところは、食道のところにある静脈が少し切れただけのようです。処置をしてもう出血も止まっていますし、しばらくは大丈夫でしょう。ただ、どこかでまた大出血を起こして命に関わるという可能性はあります」
「加藤は、酒が好きだったからねえ……。でも、まあ本望ってところなのかしらね。とりあえず命に別条がないようで安心したわ」
結城は胸に手を当てて、安堵のため息を吐く。
「それで、今日は結城さんにもうひとつお話ししておきたいことがあるのですが」
「なあに?」
「ええと、結城さんは加藤さんと一緒に暮らされている……ってことでよかったですよね」
亜桜が恐る恐る尋ねると、結城は居住まいを正して真顔になる。
「まあ、今日こうやって来ている時点でわかっていることでしょうけど……。加藤にも聞いたんでしょ?」
「はい、伺いました」
「ええ、それは本当よ。結婚の届けは出していないけど、加藤は私の夫です」
「だとしたら、加藤さんが今後、安楽死をご希望されてこの病院に紹介してもらった、ということはご存知でしょうか」
結城は目を丸くして絶句する。やはりその件については話をしていなかったのだ。
「あ、安楽死? もう生きることをあきらめるって言っているの? あの加藤が」
結城は手を小刻みに震わせてうつむく。
「ええ、なので結城さんを交えて一度きちんと話し合う機会をつくりたいんです」
「いやよ! そんなの!」
結城が不意に大声で叫んだので、亜桜はびくっと後ろにのけぞる。結城は、亜桜の怯えた顔をみて我に返り、落ち着かない感じで視線をさまよわせた。
「あ、あ、ごめんね。いえ……そうね、話し合わないとね……。それが嫌って言ったわけじゃないのよ」
「わかってます」
亜桜は胸に手を当てて自らの動悸を鎮めながら、結城の表情をしばらく眺めていた。
「結城さんは、安楽死には反対ですか」
「ええ、当然よ」
「どうしてですか?」
「どうしてって……。自分の大切な人に、少しでも長く生きていてほしいっていうのは普通のことでしょ?」
結城は不思議そうな表情をする。
「ええ、そうですね。でも、加藤さん本人は長く生きることに未練はないと、外来でもずっと言い続けてきました。それに、生きながらえることによって、結城さん――あなたに迷惑をかけたくない、って加藤さんは言っています」
「迷惑? 私が……?」
結城は少し困惑した表情を見せたが、すぐに口元が少しゆるみ、安堵した顔へと変わった。
「なんだ、だったら大丈夫だわ。私、加藤がどんな状態でも迷惑なんて絶対に思わないもの。生きていてくれること。それだけでいいのよ」
「ご本人が、納得しますかね」
「納得させて、みせるわ」
結城はそう言って、膝の上に置いた拳をぐっと握りこんだ。
加藤の病室に結城を招き入れたとたん、結城はつかつかと加藤のベッドに詰め寄り、罵声を浴びせ始めた。なんでもっと早く言わなかったんだ、生きるのをあきらめるのか卑怯者、私といるのが飽きたって言いたいのか馬鹿野郎……。
「ちょ、ちょっと結城さん。あんまり無理に言うと『患者の権利法』違反になりますよ」
亜桜が二人の間に割って入ると、結城はようやく落ち着き、憮然とした表情でベッドサイドの椅子にすとんと座る。
「まず、状況を説明させてください。今回の吐血は治療で落ち着きましたが、加藤さんのがんは徐々に大きくなってきています。またいつ血を吐くかはわかりません。そして、加藤さん自身は、今の状況に対して制度下安楽死を行うことを希望されています。そこまではいいですね?」
加藤が無言で頷く。
「それで、加藤さんのAI判定は現在『イエロー』です。つまり、安楽死準備状態ということです。なので、加藤さんがご希望されれば、このまま安楽死に向けた手続きを進めていくことができます」
実は、先日亜桜が言った「結城さんの了承が得られなければ、安楽死の手続きを進められませんよ」というのは、作り事だった。法律にはそのようなことは規定されておらず、仮に法律上の配偶者であっても、本人が希望する安楽死手続きに介入することはできなかった。そのため、国家認定緩和医である亜桜は、本人が安楽死手続きを希望した時点で臨時のパーソナルAIのIDを付与し、粛々と法に則り手続きを進めてきたのだった。
「はい、そのまま手続きを進めてください」
加藤が神妙な面持ちで答えると、結城のお尻が椅子から少し浮いた。
「待って! 私は納得できないわ。今日の今日、亜桜ちゃんから聞かされたばかりなのよ!」
「これまで歩美に言ってこなかったのはすまなかったと思ってるよ。でもな、どちらにせよそんなに長くはないんだし。それに、こうした方が歩美のためなんだ」
「何よ、私のためって……。私のためを思うなら、手続きを中止して!」
結城が椅子から立ち上がったので、亜桜は手のひらを向けて制した。
「結城さん、手続きを進めたとしても、今日明日で加藤さんの安楽死が実行されるということはありません。『イエロー』が『ブルー』に変わるまで、まだ時間はあります。その間に、これから何度も話をしてほしいんです。撤回はいつだってできます。加藤さんも、いいですね。結城さんのお気持ちにも向き合ってくださいね」
「当り前だろう」
加藤がふふんと笑うので、結城が今にも飛び掛からんという形相になる。
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