06足るを知る(1)
水原莉乃は不思議な医者だ。
まず、年齢が不詳だ。実際には40歳前後のはずだが、ふとした時には亜桜より年下にみえることもある。ずっと照葉にいる理由もわからない。2年ほど、都内のがん専門センターに腫瘍内科医としての修行に出た以外は、医者1年目からずっと照葉で勤務をしているという。そのため、院内で水原より勤続が長い職員も多くはなく、照葉の歴史の語り部のように扱われていることもある。プライベートはもっと不明で、彼女がどこに住んでいるのか、恋人はいるのか、休日は何をしているのか、といったこともほとんどが謎であった。
そういった背景もあり、性格は気さくで快活、時々天然という愛されキャラであるにも関わらず、その美貌も相まってどこか近寄りがたく、一緒にいると緊張を強いられる先輩医師だった。
亜桜は研修医のころ、水原に数か月指導医としてついてもらったことがある。亜桜が慣れない外来診療をする姿を録画して見てもらい、医療コミュニケーションのイロハを彼女から叩き込まれた。何度か、水原の外来に陪席したこともある。その時から「包み込むような空気を作る人だな」と感じていた。ただ単に優しく包むだけではなく、その中に張り詰めた厳しさも入れ込むような空気。それは、診療外で水原が見せる雰囲気と全く一緒で、その意味で彼女は裏表がない人なのだろうと信頼できた。
その水原の外来に、亜桜は今日約5年ぶりに陪席している。水原が認知症のがん患者に対して、化学療法を行うかどうかを相談するという話を聞いたからだった。
一般的に、高齢かつ認知症がある患者は、抗がん剤治療の対象となることはない。身体の予備能力が低く副作用が出やすく重症化しやすいこと、また認知症があると服薬タイミングや副作用対策も管理できず、薬害を起こしやすいからだ。
しかし、今日の患者は前医でそのことについて十分に説明されたにも関わらず、その娘がぜひ水原の外来に受診させたい希望とのことだった。
「父は認知症と言われていますが、きちんと自分のことはわかっています。前の先生は、父の顔を見ることはほとんどなく、全部私に向けて話してきて。しかも『抗がん剤は無理なんですよ』の一点張りで。そんな時に私のパーソナルAIに、以前に認知症がある患者でも治療をしたことがあるって、水原先生の情報が入ってきたんです。だから、ぜひ……いえ、仮に治療はできなくてもいいんです。きちんと、父に納得してもらいたい」
地域連携室から、「そういうご相談が入っているのですが……」と困った様子で電話が来た時、水原は「いいよー。空いてるとこに予約入れといてー」と即答したという。もしかしたら自分の病名すら忘れているかもしれない患者と、抗がん剤の可否について相談する……。そんなことが可能なのかどうか、そしてその外来の様子を見学すれば、笹崎に息子たちのことを説明するヒントになるかもしれない、と亜桜は思ったのだ。
「おはよー亜桜ちゃん。なんか亜桜ちゃんがそこに座っていると新鮮だねえ」
診察室のドアを開けて、水原が入ってきた。水原は患者がいないところでは、亜桜のことを昔のように「亜桜ちゃん」と呼ぶ。
「おはようございます。無理言ってすみません。今日は見学、よろしくお願いします」
「あははー。そんなにかしこまらなくていいよ。でもなんか、昔を思い出すねえ。あの頃はかわいかったのにねえ」
「ええ、本当に。あの時のご指導があったから、いま何とかやれていると思っています」
「いやあー。亜桜ちゃんはコミュニケーション上手だったから。そんなに教えることもなかったと思うけどね」
水原に「コミュニケーションが上手」と褒められて、心の奥がチクリと痛んだ。
――ええ、そうですね。「医者としては」ですね。
そう告白してしまいたい衝動を抑え込んで、亜桜は曖昧に笑った。
水原はカルテ・タブレットを虹彩認証し、画面を開く。
「はい、この方が今日の患者さんね。塩村浩二さん、83歳。大腸がんの多発肝転移みたいね。認知症があり、5年前から介護施設に住んでいる。歩行も難しいようだし、抗がん剤の適応ではないわ。もう少し元気で、娘さんと同居しているとかの状況なら、何とかできたかもしれないけど……」
「じゃあ、前の先生みたいに『抗がん剤はできません』って伝えるんですか」
水原は、「うんー」と言ってニヤっと笑った。
「どうするかを、これから相談するのよ」
※お話を一気に読みたい人、更新されたら通知が欲しい人は、こちらから無料マガジン『褐色の蛇』をフォローしてね↓