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01国会認定緩和医(1)

「802号のスズキさん、もうすぐ呼吸止まります!」
「ほんとに? 814号室もさっき急に止まったのよ。家族に連絡しないと。そっちは家族付き添ってるの?」
「あら……立て続けに。深夜でも805号室のお看取りがあったからね」
 緩和ケア病棟は、朝からバタバタと忙しい。この場所では死は日常だから、泣き崩れるスタッフはさすがにいない。ナースステーションの中では「三途の川の渡し舟は三人乗り」なんていう、病院の中だけでしか通じないブラックジョークが飛ぶくらいには落ち着いている。しかし一方で死に臨む病室では、悲しみや怒り、そして恐怖といった様々な感情が交錯することも事実だ。それが人手の不足しやすい早朝ともなると、いやが上にも緊張感は高まる。
「おはようー」
 ピリピリした病棟の空気をあえて読まず、亜桜があくび交じりにナースステーションに入っていくと、看護師の赤垣凪咲が駆け寄ってきた。
「望月先生、ちょっと相談したいんです。802号が止まりそうなんですよ」
「えっと802号の方って……。ああスズキさんね。確かに、昨日から意識が落ちているって運野先生言っていましたよね……。運野先生には連絡したの?」
「連絡したんですけど、お電話がつながらなくて。家族がけっこう動揺しているので、一度ドクターに診てもらいたかったんですが……」
「あら、そうなの? まだ病院に着いてないのかもね。いいよ、私が行くわよ」
「お願いできますか。ありがとうございます」

 亜桜は廊下を歩きながら、先ほどまでの眠そうな表情を作り直して呼吸を整え、病室の前に立った。
「凪さん、酸素っていま何リットルいっている?」
 ドアに手をかけようとして、亜桜は傍らにいた赤垣に問いかけた。
「いま、指示で15リットルです」
「じゃあ、音がうるさいでしょう?」
「ええ、シューシューいっていますね」
「ふーん……。ちょっと消音装置準備してくれるかしら。私が聴診を始めたら酸素の音を消してほしいの」
「消音装置……ですか。了解しました」
 病室のドアを軽くノックし、ゆっくりと病室に入る。
「失礼します。医師の望月と申します。主治医の運野はいま病院に向かっているとのことなので、それまでの間、私が拝見しますね」
 肩で喘ぐような呼吸をする患者と、ベッドを遠巻きに立ち尽くす妻と子供たち。空気は尖っていて、固い。
 亜桜はベッドサイドの椅子に、白衣を翻してふわりと座り、ゆっくりと脈を取り始めた。
1秒、2秒、3秒……。
 脈を触れながら、目を閉じて音を聞く。この病室の中にあった、たくさんの音。亜桜が押し黙って患者に触れている時間で、それらの音がひとつずつ落ちていく。看護師が歩く音、家族の嗚咽の音、酸素マスクから流れる音……。
「胸の音を聞きますので、酸素マスクの音だけ、ちょっと消させていただきますね」
 亜桜が柔らかな声で家族に告げたタイミングで、赤垣が消音装置のスイッチを入れる。途端に、酸素マスクからのシューシューという音が消えた。それを確認し、亜桜はまたゆっくりした動作で聴診を始める。右の胸、左の胸、また右……。病室の音がすべて床に沈み、空気が落ち着いたことを確認して、亜桜は聴診器を外した。そしてまた、1秒、2秒、3秒……亜桜はあえて言葉を出さず、丁寧に患者の着衣を整え、ふわりと椅子に戻る。
「胸の、音は、きれいですね」
 わざとゆっくりと、言葉を区切るように亜桜は話し始めた。
「いま、ご本人は痛いとか、苦しいとかはないと思います。でも、周りにご家族がいらっしゃると、もっと安心なさるかと思います。こちらに来て、手を握ってあげてくれませんか?」
 妻に向かって声をかけると、彼女はおずおずと手を伸ばし、握った。
「話しかけてあげてください。目は開けなくても、耳は聞こえています。だから声を……。それは私たちにはできない、ご家族だけしかできないことなんです」
 妻に続いて、子供たちもベッドサイドに近づき話しかけ始めた。亜桜は、その様子を眺め、すっと立ち上がり病室を後にした。
「亜桜先生、ありがとうございました」
 振り返ると赤垣がついてきている。
「ああ、凪さん。あなたはもう少し家族をみていてあげてよ」
「ええ、すぐに戻ります。でもひとつ聞きたくて」
「何を?」
「どうして消音機を使ったんですか?」
 亜桜は「あー……」と言いながら宙をあおいだ。
「うん、だってうるさいじゃない」
「え、それだけですか?」
 赤垣がくすりと笑う。
「ああいう時って、病室の空気が『舞っている』感じがしないかしら。あの空気を一度落とさないと、家族は患者に近寄れなかったんじゃないかなって。空気全体が固まっていたからね。それを和らげようとする時、余計な音は不要なのよ」
「うーん。亜桜先生ってよくその『空気』って話しますけど、私にはよくわからないです」
 赤垣が困った顔をするので、亜桜は少し首をひねった。
「何ででしょうね。私もいつからわかるようになったのか、わからないのだけど」

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西智弘(Tomohiro Nishi)
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