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08その瓶は死を待っているのか(8)

 翌朝の回診で、加藤の部屋に行くと『有明桜』の空瓶がベッドサイド・テーブルに置かれ、朝日に輝いていた。そして、今朝は珍しく結城もベッドサイドに座っていた。
「おはようございます、加藤さん、結城さん。昨日は楽しかったですね」
「おう、亜桜ちゃんもありがとうな」
「本当に、加藤さんと縁があったんですね」
「ああ、そうだな。親父さん……の好きな酒って言っていたか? それで、その造り手が娘の患者だっていう話だからな」
はっはは、と加藤は笑った。
「では、今日はまた五十嵐先生……1か月前の入院で一度お会いしましたけど、その先生の2回目の診察になります。それでOKが出れば、いよいよ制度下安楽死を施行できるようになりますからね」
 加藤は、結城の方をチラッと見て、もごもごと言っていたが結城に手を取られてひとつ咳ばらいをした。
「あのな亜桜ちゃん。申し訳ないんだけど、安楽死の手続き、中止してもらえないかい」
 亜桜は突然の申し出に、口をポカンと開ける。

「昨日あの後な、歩美ともう一度話し合ったんだけどな。これまではなあ、正直俺みたいな人間はいつどうなってもいいってずーっと思ってたんだ。でも、川崎に来て、歩美とか、前田さんとか……たくさんの人と仲良くなってな。ああ、俺なんかにもったいないなあ……とも思ってたんだけど。昨日、『有明桜』を少しだけど口にできて、色々なこと思い出して……。この酒だって、死なずにずーっと生きているのを見てたらなあ……。俺も、もう少し生きていていいのかなと思ってよ……」
 結城はハンカチで目じりをおさえる。
「アンタ……ありがとね。ごめんね」
「ああ、歩美。こちらこそ済まねえな。もうちょっとだけ迷惑かけるわ」
 二人は抱き合って泣き出してしまった。亜桜は、二人の様子をじっと見つめていた。
「加藤さん、本当にそれで大丈夫ですか」
 泣き声が少し落ち着いたところで、ゆっくりと声をかけると、目をはらした加藤が亜桜に目をやった。
「ああ。亜桜ちゃん、悪いな。……酒もな、最後の責めっていうのが一番濃いもんだ。俺のも借り物のいのちだけどな、もう少しだけ搾り取ってから、返すことにするわ」
 加藤は天井を指さして、笑いながら言った。

 五十嵐は不機嫌だった。病棟に到着したところで亜桜から、つい1時間ほど前に加藤が制度下安楽死の手続きを中止したこと伝えたためだ。
「望月先生。そういうことはねえ、もっと早く教えてくれてもよかったんだよ」
 ナースステーションで椅子に腰かけながら、五十嵐は亜桜をなじった。
「はい……申し訳ありません。なにせ、ついさっきの話でしたので」
「私は無駄足ではないか。制度下安楽死を希望しない患者に、監査医が会ってできることはない。そもそも報酬にならないから会うだけ無駄だ」
「あら……もしかしたら交通費もですか」
「交通費もだよ」
 五十嵐は亜桜をじろりと睨む。知らなかったこととはいえ、それは少し悪いことした。
「まあいい。そういうことが起きるのが医療であり、制度下安楽死の良い面のひとつだからな。ところで……」
 五十嵐は意地悪そうな目つきで亜桜を見つめる。
「もし、加藤さんが今日も安楽死を希望されていたとしたら……、望月先生はどう評価した? 制度下安楽死をするに適当な状況だと思うかい」
 亜桜はしばらく黙って、五十嵐の目を見つめ返していたが、やがてすうっと大きく息を吸って話し始めた。
「はい。私は、加藤さんには安楽死の適応があったと思います。診断用AIの判定は『ブルー』で問題なし。私から見ても、残されている時間は長くても1か月以内と判断します。すでに、食事も摂取できず、投薬で緩和できない嘔気・嘔吐があり、トイレに行くにも人の助けを借りなければならない状況に対し、本人から『耐え難い苦痛がある』という訴えがありました。『他人に迷惑をかけたくないから安楽死を希望する』という点については悩ましいですが、それが本人の尊厳を毀損するという解釈の事例が多数あり、加藤さんについてもその解釈を充てて良いと判断しました。パートナーである結城さんの了解は、最後までなかなか得られませんでしたが、ある程度納得された言動も見られるようになってきました。それに、最終的にはパートナーが反対したとしても、本人の意思を尊重する。それが『患者の権利法』の定めです」
 亜桜がよどみなく滔々とプレゼンするのを、五十嵐は表情を変えずに聞いていた。
「勉強したのか」
「はい。これまで全国で実施された制度下安楽死の報告書、一通りすべて目を通しました」
「ほう……全部。まあ、国家認定緩和医を名乗るなら、これまでやっていて当然のことだったがな」
 五十嵐は「よいしょ」と声をかけて椅子から立ち上がった。つられて、亜桜も立ち上がる。
「私が、かつて安楽死の制度化に反対していた、という話は聞いているか?」
「ええ、岩田先生から」
「そうか。今でもな、こんな制度は無いほうがいいと私は思っている。しかし、できてしまったものは仕方ない。だったらせめて、適当に運用されるのだけは止めないといかんと思っておる。この前の望月先生のようにな」
 亜桜は恥ずかしくなり、うつむいた。
「国家認定緩和医たるもの、人のいのちに責任をもたないといかん。責任をもつということは、どういうことか。それがわからんのなら、国家認定緩和医なんて資格は、返上した方が社会のためだ。望月先生……君はようやくスタートラインについたばかりだ。もっとよく考えなさい。私はこれからも君たちを見張っていくからな」
 五十嵐は、そう言い残してナースステーションを出ていった。制度下安楽死に反対だ、と言い、厳しい言葉もあったが、最後にかけてくれた言葉は激励とも取れるものだった。亜桜は廊下をヨタヨタと歩いていくその老医に、「ありがとうございました」と深く頭を下げた。

「……亜桜先生」
 不意に声をかけられ、驚いてふりむくと赤垣が立っていた。
「加藤さん、安楽死の手続き中止してしまったんですってね」
「うん。結城さんの説得もあったし、加藤さんも参加してた『日本酒を楽しむ会』っていうのがあるんだけど、その方々の力も大きかったよね」
 赤垣は表情を変えずに黙っている。亜桜も、赤垣の真意を読み取れなくて沈黙した。
「亜桜先生、今度また一緒にお風呂入りに行きませんか」
「えっ……。ああ、もちろんいいよ」
「いつなら行けます?」
 亜桜はAIウォッチでスケジュールを確認する。
「えっと……再来週の火曜なら宿直明けだから、昼風呂できるし……あとは夕方か土日?混んでるけどね……」
「はい。じゃあ6月最後の火曜日ですね。私はその日お休みなのでお風呂入りに来ます」
 どういう意図で風呂に誘われたかわからなかったが、込み入った話になりそうだな……と亜桜は思った。長くなりそうなら、のぼせそうな風呂よりも、居酒屋で一杯飲みながら、とかのほうがいいんじゃないかな……とも思ったが、それを口にする前に、赤垣はぺこりと頭を下げると、踵を返して走って行ってしまった。
――まあ「何でお風呂なの」ってことも、その時に聞けばいいか。

 国家認定緩和医・望月亜桜。まだその手で安楽死を施行したことはない。

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西智弘(Tomohiro Nishi)
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