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ぼくがInstagramをはじめる理由

今年からInstagramをはじめることにした。
今さら?と思うだろう。僕もそう思う。

実際、これまでInstagramについてはその必要性を感じていなかった。
短文で思考を文字にして拡散をするならTwitterが、
中文である程度まとめた内容を限られた仲間に伝えるならfacebookが、
そしてその両方を兼ね備えたツールとしてnoteがあった。
僕のもっているiPhone8はそれほど写真がきれいでもないし、そもそも医療と写真という関係自体がバランスが悪いように感じていた。医療の現場は「写せないもの」が多すぎるからだ。

幡野さんの影響で写真を始める

その転機となったのが、写真家の幡野広志さんと出会ったことだ。
僕はもともと、酒以外に趣味というものを持っていなかった。
そんなときに、幡野さんが写真を勧めてくれたのだ。
「写真はいいですよ。とりあえず撮れば写ります」

撮れば写ります、って当たり前のことじゃんか。
と、その時は心の中でツッコミを入れて終わったように思う。
それから数か月して、実際に「あ、写真ってかっこいいかも」と思ったのは、幡野さんにその日に買ったLeicaを見せてもらったときだ。

その日の様子がこれ↓

正確に言えば、「写真がかっこいい」というよりは「Leicaがかっこいい」と思ったのだろう。
今は諸般の事情で乗れないが、20代のころはバイクが好きでよく乗っていた。今でも新しいバイクを買う夢を見る。本来が、そういう「かっこいい機械」が好きだったのだ。
ただ、それ以上にLeicaを始めて手にする幡野さんの見たことない笑顔にひかれたという面も否めないが。

その1か月後にFUJIFILM X-E3を購入した。
後で聞いた話だが、幡野さんが昔使っていたカメラらしい。そんな奇遇もあるんだな。幡野さんに言わせると「カメラは何でもいい」ということらしいが。

ケアとPR

写真を撮り始めてすぐわかったのは
「これはなかなか奥深い趣味だな」
ということだ。
これまでコンデジかiPhoneのオート設定でしか写真を撮ったことがなかった自分としては、F値とかシャッタースピードとか露出とか、微調整することで写真がこんなにも大きく変わることが驚きだった。
そして、改めていろいろな写真家の方の写真を見ることで、それらの芸術性の高さにも惹かれた。

それと同時に僕の頭に浮かんできたのは、昔は無理だと思っていた
「写真を使って医療の姿を表現できないだろうか?」
という命題だ。
僕は以前に、「人生会議」のポスターが炎上した際に「ケアとPR」というテーマでこんな文章を書いた。

この文章の中で、僕は
「緩和ケアをアートで表現する」
ことを考えていると書いた。今でも本気で考えている。どれくらい本気かと言えば、世界でも有数の美術館の学芸員に、アートイベントの開き方を聞きに行ったくらいには本気だ。
医療そのものを撮るのは難しいが、緩和ケア、「死までを生きる」を写真の中で表現することはできるかもしれない。
もちろん、アートイベントをやるとしたら、その対象は写真だけではなく、インスタレーションや演劇、パフォーマンスアートや盆栽なども取り入れたい。でも、まずは自分の中で「死までを生きる」をアートで表現するとはどういうことか?という目を養いたいのだ。

僕はInstagramのテーマを #生と死無常その錯綜 としてみた。
生きること、死ぬこと。人の営み、自然の流転。世の中は無常であり、その錯綜する交点は今ここにしかない映像だ。
それを表現する技術はいまの僕にはまだ無いのだけど、いずれそれができるようになりたいと思っている。

Instagramは未熟さを知る道場

Instagramでは、写真家の方々をフォローしている。
そうすると、自分の作品とプロの写真がタイムラインに一緒に並ぶのを見られる。
写真を始めて半年にも満たない僕の写真は、どう贔屓目に見てもプロの技術におよばない。いや、撮っているときはけっこうよく撮れたと自画自賛してるんだけど。
僕にとっては、そうやって強制的に並べられて、自分の未熟さを目の当たりにできるInstagramの場は面白い。
その中で #生と死無常その錯綜  とは何なのか?というテーマを突き詰めていくことにもなる。

幡野さんは僕に「写真は、日常の『ワー』を撮るんですよ」と教えてくれた。
日常のワー
日常のワー
その言葉を毎日のように反芻して、まちなかにそれを探している。


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