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09カウンター(3)

「あっ……」
 亜桜は背筋に雷が走ったような感覚を覚えた。
「そうだよね、そうだわ。赤垣の言う通りだわ。どうしてそれに気づかなかったんだろう」
「私が患者なら、いまの先生には安心して安楽死を任せられません。最後の最後で、家族の意思を患者の意思と混ぜてしまいそうで。加藤さんと結城さんのときもそうでしたよね。確かに、家族の気持ちも、患者の気持ちも両方とも大切にしたい亜桜先生は、優しい人なんだと思います。でも、時にその優しさが患者の自由を縛ることってあると思うんです。患者と家族、両方の思いを混ぜるではなく、別個に分けてケアする方法もあると思います。母の主治医がそうしてくれたように」
「うん、そうだね。ごめんね。私、まだ国家認定緩和医としての勉強が足りてなかった。そりゃあ運野先生にも叱られるわ……。私の結婚観とか、『自由って何か』っていう考え方とか、すごく凝り固まっていたんだね」
 亜桜が大きく頷いているのを、赤垣は「まだ不満がある」という顔で見る。
「私の中では、先生もパートナーなんですよ。わかりますか? それだけ、先生のことが好きなんです。でもそれは別に、セックスがしたいという意味ではないです。セックスがないとパートナーではない、なんていうのも変だと私は思います。セックスすることが恋人の証明ですか? 相手のことが好きだから、もっと知りたい、触れ合いたい、っていう先にあることのひとつでしかないですよね。それが男性だろうが女性だろうが。私は先生のパートナーでいたい。パートナーなのだから、自分と同時に、先生の思いも価値観も尊重します。先生は男性が好きで、夫さんもいる。だから今の関係でバランスが取れているんだと思っています」
「えっ、ごめんちょっとついていけてないんだけど……」
――そういうのを世間一般では「告白」って呼ぶんじゃないのかな。
「そうですよね、すみません。でも、先生が私のことをどう思おうが、私から先生に向ける思いは私だけのものです。先生の思いが私に向いてるか、向いていないか……えっと、先生の価値観でいう意味では向いてないんでしょうけど。それによって私の思いが影響されるわけではないですよ、って意味です。拗ねたりはするかもしれませんが。相手が愛してくれるから、じゃあ私も愛し返してあげよう、なんていうのは愛じゃないと私は思います」
 亜桜はぎくりとした。これまでの「恋愛」がまさにそれ、だったんじゃないか。男性が、私のことを好きでいてくれるから、私も好きだった。近くにいてくれるから、好きになった。そんな受け身の恋ばかりしてきたんじゃなかったか。
「亜桜先生は、夫さんもパートナーにしたらいいんじゃないですか」
「ん? 夫、も?」
「さっきも言いましたけど、パートナーって一人に決める必要なんてないじゃないですか。私は、いまのパートナーが嫌がるので体の関係までもつのは彼女ひとりですけど、別のパートナーと暮らしていたらまた違った付き合い方になったと思います。だから先生も、いまの夫さんは『晨君のお父さん』としてのパートナーとしてあっていいと思いますけど、それ以外に男女関係なくパートナーは何人いてもいいんじゃないんですか?」
「うわー、考えたことなかった」
 赤垣の指摘にこれまでの価値観がぐらぐらと揺さぶられ、亜桜は脱衣所の天井を仰ぎ見た。そして、しばらくしてはっと気づいたように赤垣に目を向ける。
「ねえ今これ、私って口説かれてるよね」
「はい、口説いてますね」
 赤垣は泣きはらした目でにっこりと笑う。
「温泉の脱衣所で」
「そうですね。温泉の脱衣所で」
 亜桜は思わず吹き出して、声をあげて笑った。
「参りました。そうか、私今日、口説かれるために呼ばれたのか。そうかー……」
「いえ……そういうつもりはなかったんですけど、気が付いたら口説いてました」
 赤垣はいたずらっぽい笑顔を作り、そして言葉を継ぐ。
「私は、加藤さんと結城さんのことを話したくて。もっと国家認定緩和医として、しっかりしてほしいともずっと思っていて。いつ言おうか、ってチャンスを窺っていたんです。その後の話は、流れで、つい」
「そうかー……ありがとうね。凪さんのおかげでいろいろと目が開かれたわ。でも……どうして温泉?」
「それは……私が単に、亜桜先生と温泉に行くのが好きだからです」
「それだけ」
「はい、それだけ」
 あっけらかんと言う赤垣の態度に、亜桜はまた、あははと笑う。
「凪さん、あなたは本当に面白い娘だよね。今まで友達は多かったと言えなかったけど、あなたみたいな娘はいなかった。うん、確かにあなたは私のパートナーだよ。これまでも、そしてこれからもね」
「はい、嬉しいです。これからもよろしくお願いします」
 赤垣は小さくガッツポーズをして喜んだ。
「うん。ぜひ凪さんが一緒に暮らしているパートナーの娘にも、一度会ってみたいな」
「本当ですか。彼女も喜ぶと思います。でも、彼女はこういう公衆浴場は嫌いみたいだから、別の場所ですね。それに彼女も忙しいんで、中々時間合わないかもしれませんが、いずれ」
 亜桜は、頷いた後に無言になって少し考え、最後にふっと口を開いた。
「蓮とのことも、もう少しよく考えてみる」
 それは赤垣に言ったのか、自分自身に言ったのか。

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西智弘(Tomohiro Nishi)
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