薩摩の外城、武家屋敷群「麓」を歩く
(外城は「とじょう」、麓は「ふもと」と読む)
薩摩藩の本城、鹿児島城(鶴山城)
1601年、関ヶ原合戦のあと、島津家久が鹿児島城(鶴丸城)の建設に着手したとき、父義弘は「ここは海に近すぎる」と反対したという。しかし家久はそれを押し切って建設を進める。すぐ裏手にある城山の上に山城として築くのではなくその麓に平城とし、かつ天守閣を置かずに館とした家久。父の時代とは既にもう違う時代が来ている、それを敏感に感じてのことだろう。
「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」が薩摩流の思想によるものだとも説明板は言う。武田信玄の「人は城、人は石垣、人は堀」も思い起こされる。確かに武田氏の館も平地に置かれていたっけ。
薩摩の外城(とじょう)制度、その中心地である「麓(ふもと)」
江戸幕府による「一国一城令」もあり、鹿児島城以外には城は持てない。しかし一方で秀吉の九州平定時に領土を大幅に削られたときも武士の数を減らさなかった薩摩藩であったがゆえに、それら多くの武士が暮らす場所も考えねばならない。
これらを解決するために各地に「外城」として山城跡の周辺に「麓」(武家屋敷群)を置く、外城制度という独自の制度ができたのだという。藩内に最大120もあったという「麓」、現在幾つか残っているうちの2つを廻ってみることとした。
知覧麓
江戸中期の風情を今に残すという知覧麓にまずは向かった。知覧特攻平和会館から車で7~8分で着く。知覧麓は外城(麓)の典型的な形を残すものと言えるようだ。まっすぐと続く道の両側に武家屋敷が建ち並び、一部の庭園を公開してくださっている。
先ほどまっすぐに続く、と書いたが亀甲城(山城)跡に続くその道は当然ずっとまっすぐではない。それでは攻め手から見通しが良すぎるから。時に鈎状に曲がったりしながら延々と続く。この規模は圧倒的だ。やはり武士が多かった薩摩ならではと言えよう。
7つの公開庭園もみな見事だった。1つだけ写真を挙げておきたい。
知覧型二ッ家
また、この辺にしか見られないという知覧型二ッ家も興味深い。お勝手と母屋が分かれていた二ッ屋という様式だったが、便利のために徐々に接近して遂にくっ付いたということのようだ。
この知覧麓は大河ドラマ「西郷どん」でも撮影に使われたということ。第一話の「妙円寺詣り」のシーンで使われたと掲示されていた。確かに江戸期の薩摩をそのままに保存している貴重な麓であると感じた。
喜入旧麓(きいれもとふもと)
さあ、知覧ともお別れ。指宿に行く途次に喜入があるのは見逃せない。喜入旧麓に立ち寄りたい。まずは喜入公民館に立ち寄り、旧麓の地図をいただき、旧麓地区へと向かった。
もともと喜入は、この字ではなかった。給黎と表記していたが、1414年に島津氏がこの地を征服した際に喜びを表すべく「喜入」と改めさせたという。しかしその後も島津氏の領地に安定したわけではなく、蒲生(かもう)氏、喜入氏、肝付(肝属)氏が領していた。最後の肝付氏はゲーム「信長の野望」に夢中になった諸氏であれば覚えていることだろう。島津氏に頑強に抵抗した一族だ。しかし最終的には1574年に島津氏に降ったのであった。
この喜入旧麓が貴重なのは「旧」の字が有るとおり、旧来からの麓の在り様を今に残しているところ、1653年に肝付氏が居城を他に移したがために、約400年前の風情をそのまま残していることだという。
他の麓が使われ続けたがゆえに幕末までの約250年のあいだ姿を変えていったのに対して、ここは時が止まっているとのこと。
確かに、先ほどの知覧麓が平地にあったのと比べて、こちらは山間(やまあい)にあり、道幅も狭く曲がりくねっている。そしてこちらには田園風景が広がっている。
あいにく旅の時間ももう多く残っていなかったこともあり、3箇所だけを廻ることとした。まずは田の神さまを拝ませていただく。何百年とこの地の田を見守り続けた小さな神様。
数分移動、駐車場に車を停め、続いて肝付家歴代墓地へ歩く。
途中あまりに美しい小川があったので、いっとき涼を得た。
肝付家歴代墓地は段々畑のように、四段にわたって歴代当主やその奥方などの墓が並ぶ。
幕末の英傑、小松帯刀は肝付家の三男として生まれ、小松家に養子に出た人物であるため、帯刀の父の墓もあった。
肝付家歴代墓地を少し下りたところにある香梅ヶ渕(こべがふち)も次に見た。四季や天気によりエメラルドグリーンやコバルトブルーに見えることがあるとのことだが、私が行ったときは通常の渕の色であった。
本来は喜入旧麓の集落に行きたかったところだが、あいにく時間切れ。束の間の麓巡りはこれにて終了とあいなった。もし次の機会があったら、今度こそ喜入旧麓の集落自体を観に行きたいな、そう願いつつ車を次の目的地である指宿に向けたのであった。
附記:知覧城址(大刀洗陸軍航空廠知覧分廠跡)
知覧麓から喜入旧麓に向かう道沿いには知覧城がある。大規模な山城で本来ぜひ中まで入ってみたいところ。しかし崩落危険のため現在立ち入り禁止なのが残念。入り口だけ見てきた。
ああ、楽しそう…城好きには垂涎の入り口だが、ここまで。
なお、山城跡地だったここを大戦時には知覧飛行場にて故障・破損した飛行機を修理する場所として使ったと説明板にあった。確かに空から発見されにくい感がする。