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子どもたちに、感謝

美容院に行った。いつも同じスタイリストさんに切ってもらっているのだが、前回は彼女がお休みだったので、指名するとちょっとだけ値段の高いオーナーに切ってもらっていた。今日は久々に彼女に出会えてホッとした。
彼女が急に休んだのは、妊活がうまくいかなかったからだ、と仕事を休むにあたってのお詫びの電話で本人から聞いた(電話も、その話された内容も、すべて本人の希望によるものだ)。私は経験したことがないので、実際のところは全くわからないが、心も体もダメージは大きかったのだろう、と推察する。
まだ若い、と周りは容易く言うけれど、本人にとっては、毎月のように期待と落胆がある中で、日々の暮らしを成立させるのは、大変なことなんだろう、と思う。

私は妊娠については、ほとんど苦労していない。
就職氷河期だったにも関わらず、あっさり仕事に就くことができたのだが、結婚で苦労した。だから、結婚が決まった時点で、年齢的に妊娠がうまくいくか心配したが、結納を済ませた2ヶ月後には妊娠がわかり、結婚式を4ヶ月早める結果となった。
仕事場にも、親族にも迷惑をかける形になったのだが、周りはなんせ私の年齢を考えた上で祝福してくれた(と、勝手に思っている)。

子育ては、初めてのことばかりで、それまでの仕事で得たスキルや学校で習った知識は、ほとんど役に立たなかった。育児本で予習していたが、産まれてみて初めて知ることばかりだった。
私の初めての育児は、生まれてきた長男と一緒に闘ってきたようなものだ。彼がうまく私の子宮から産道をつくって外に出てきてくれたように、授乳にしろ、おむつ替えにしろ、赤ちゃんならではの反応にしろ、長男の協力がなければ、母としての私は立ち行かなかったと思う。
子育てセンターに行く、予防接種に行く、習い事を始める等、いつも長男とともに、初めてを経験してきた。次男の出産の時も、陣痛がきたとき、そばにいてくれたのは2歳の長男で、ギャンブルに興じていた夫よりも私を気遣い、iPadで産婦人科のホームページを開いては連絡先はここだよ、と彼なりのベストを尽くしてくれていた。

就職で初めてやってきた土地に住んで10年後に結婚、妊娠できたわけだが、育児を通して、さらに人間関係は広がっていった。その広がった人間関係は、その後の仕事や生活にもプラスの影響をもたらしてくれている。子どもを持つことで、考え方や価値観も複雑になり、多様性を認められるようになった。もちろん、あくまでも以前の私より、ではあるが。
そう考えると、私にとって育児は、私の生き方に大きな影響を及ぼしている。

ただ夫は、というと、そこまでの、父になったことによる人生への影響はなかった。むしろ、影響されないことに、プライドを持っていた。父になっても、変わらず遊びにでかける。変わらず自分の時間を優先する。子どもの予定に煩わされない生活にこだわっていた。おむつ替えやお風呂に入れるといった日常的な世話も、全面的に放棄した。普段一緒にいる私がやる方が、効率がいいから、だそうだ。
子どもたちが大きくなってからは、友達としての付き合い方を始めた。オンラインゲームを通して子どもたちと交流し、自分がいかにうまくゲームを進めているかを教え、伝えていた。ゲームセンターで、どうコインを貯めていくか、クレーンゲームはどうやって攻略するかを嬉しそうに話す姿は、子育て、というより、後輩を連れ歩く中学生のようだった。

子どもたちを産み、育てることで変わった私と、変わらなかった夫。私がもっと彼に協力をお願いすれば、子育てのノウハウを提供すれば、今のように別居することはなかったのかもしれない。
そして先日、職場の片隅で、先生の腕の中で、先生が実は既婚者であることを、私が知ってしまったことを伝えた上で、「お子さんは?」と訊ねた。
すると「いませんよ。いたら、子煩悩な父親になっていたでしょうね」と回答があった。その通りだろう、と私は納得した。
しかし、嫌なことをきいてしまったな、と後悔している。おそらく異動されてきて、先生が自分の家族について語らなかったのは、こういう質問をされるのが嫌だったからではないだろうか。本当に安易に訊ねてしまったな、と、今日も部活の大会に出かける子どもの弁当を作りながら、反省している。

弁当のような、細々したものを作る、献立を考える、こうしたことが私は苦手である。こうした苦手なことにも、育児するにあたって、取り組まざるを得なかった私。今、ここで子どもたちと生活しているからこそ、得られた経験、幸せ。あなたたちが生きていてくれるからよ、と改めて子どもたちに感謝、である。

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