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過去のレコ評(竹書房vo.6-10)

Vol.6
シャーデーと水中遊泳 「ラブ・デラックス」
このアルバムをウォークマンで聴きながら、横断歩道で信号待ちをしていた。最後のマーメイドという曲が流れ出し、人々がスクランブル交差点になだれ込んだ。その瞬間、自分が水中にいて、みんなが泳いでいるように見えた。マーメイドは見当たらなかったけど、なぜか幸せな気分になった。龍宮城ってこんな感じなのだろうかと。
優れた作品に接すると、普段と変わらない現実がそれまでと違ったように感じられる。例えば印象派の絵を知った人は、夕焼けの色をそれまでより素晴らしく感じることができる。ピクニックで童謡を口ずさめばウキウキした気分になるし、樹海でアニメ映画を思い出せば何だかとても神秘的な所に来たような気になる。
表現者にとってみれば、これは幸せなことだ。自分の信じる世界観を通して、人々は現実に接するのだから。自分の世界観に賛同してくれる人が多ければ多いほど、表現者にとってこの世の中は居心地が良くなり、幸せである。
鑑賞者からみれば、多くの優れた作品に触れられるのは幸せなことだ。なぜなら、どんな現実に対しても色んな世界観で対応することが出来、何ともない世界が素晴らしくなるから。それだけで生きていくのが楽しくなり、楽になる。
優れた作品に出来るだけ多く触れよう。触れた分、あなたは逞しくなれる。

Vol.7
マックスウェルと3つの音楽 「ナウ」
ある本に「音楽には3つの種類がある」と書いてあった。「1つ目はリズムを感じて、体で楽しむ音楽。2つ目はメロディや和声に感動し、心で楽しむ音楽。3つ目は音の組み合わせに感服し、頭で楽しむ音楽」なのだと。そしてこう続く。「音楽は1→2→3の順に進化し、最後の"頭で楽しむ音楽"が一番発達した音楽である。」
バカなことを言ってはいけない。
ここで言いたいのは「リズムが楽しい音楽も尊重しよう」とか「これら3つの音楽は平等で優劣はつけられない」とかいうことでは決してない。そんな、事なかれ主義を言っているヒマはない。
ここで言いたいのはただ1つ、本当の音楽に触れた人なら分かるはずの事実だ。
つまり「優れた音楽は、体でも心でも頭でも楽しめる」という真実だ。
マックスウェルの音楽がそれを証明している。

Vol.8
ベビー・フェイスとなりたい自分 「フェイス 2 フェイス」
人はなりたい自分になれる。
うち(オノロフ)の相棒のボーカリストであるアチは以前、ベビー・フェイスのアンプラグドライブを見て「この人はもっとうまく歌える」と言った。天下のシンガーソングライタイである彼に、こいつはなんてことを言うんだ、と周囲の人間は驚いた。しかしそれは現実となった。
思えばこれまで、彼の音楽に求められるものは「歌」ではなく「曲」だった。なぜならそれまでの彼は「他人に良い曲を提供する人」として認められていたからだ。しかし、それを極め尽くした彼が次に目標として選んだのは「歌」だった。そして43歳の彼はそれを達成した。
ベビ・フェイスには元々その才能があったんだよ、という人はいるだろう。才能のある人というのは本当にいるのだろうか?映画も音楽もマルチにこなすヴィンセント・ギャロがこんなことを言っていた。「僕にあるのは、自分がこうありたいと考える想像力と、そこに向かうために必要な作業への集中力だけだ。才能なんてない」
人はなりたい自分になれる。

Vol.9
onoroffと焼きたてのパン 「オノロフ」
料理人にはかなわない。
古くからヨーロッパでは、悲しんでいる人には鳩のローストを食べさせるのが最高のもてなしだと言われている。レイモンド・カーヴァーの小説にも、焼きたてのパンで息子の死を乗り越える両親の話があった。心のこもった料理は、それほどまでに人の心に響く。
音楽を作る人間は皆、人の心を打つ音を作ろうとする。悲しんでいる人を元気付け、イライラしている人をなだめ、恐れる人を勇気付け、なんとも無い人も幸せにしてしまう。そんな音楽が作れれば、これ以上の幸せはない。
がしかし、おいしい料理はそもそも、音楽よりも人の心に響く力を持っている。なぜなら、どんなに悲しんでいる人も空腹になるから。
厳選された素材で手間をかけて作られた焼き立てのパン!こんな焼きたてのパンなら必ず、悲しみに打ちひしがれた人を慰めることが出来るんじゃないだろうか。一日中何も食べず泣き疲れた人は、音楽よりもパンで心を満たされる。
音楽には好みがある。ブルース好きのオヤジが、クラッシックで癒されることはまず無いだろう。だけども、焼き立てのパンが嫌いな人なんているんだろうか?
どこで育ちどんなものを食べてきたかに関わらず、誰でもおいしいと感じる味というものは確かにある。その例が、焼き立てのパンである。
いつか焼き立てのパンに匹敵する音楽を作りたい。オノロフはそう考えている。

Vol.10
スティングの静かな声 「オール・ディス・タイム」
これは、スティングが2001年9月11日にイタリアで演奏した記録である。
当日ニューヨークで起こったテロのニュースを聞き、スティングは演奏するかどうか悩んだ挙句、ライブの構成を練り直して決行した。そのライブの1曲目は「フラジャイル」。この曲は、テロに関する別のTV番組でもギターのみで演奏されたという。彼のこの曲への思い入れはそれほどに深い。
先ず歌詞を見てみよう。降り続く雨は涙に例えられ、流された血を洗い流す。そしていかに我々が「フラジャイル=もろく儚い」かを静かに語りかける。
スティングはこの歌詞を静かなメロディに乗せた。声高なプロテストソングではなく、鎮魂歌として奏でた。彼の2オクターブもある歌声は下半分に限定され、メロディはミからドまでも6つの音しか使われていない。リフレインはラから始まり4つの音しか経過せず降りていく。雨は落ちるだけ。壊れたものは元には戻らない。エントロピーは増大していく。
今この世界に、アメリカに、それぞれの国の人々に必要なのは静かな声だ。謙虚だが強い意思のある静かな声だ。

(竹書房「Dokiッ! 」にて2001年から連載「ボクが音楽から教わったこと」より)

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