オタク論について書いてみた
私は宇宙刑事シャイダーの頃からかれこれ数十年間オタクをやってきているが、オタクとして最近思うことをまとめてみることにしました。
はじめに:オタクの定義がよくわからない現代
最近、オタクの定義がよくわからないという声をよく耳にすることがある。実際に私もそう思っている部分はあり、いわゆるリア充と呼ばれる社交的な人々がオタク趣味の代名詞であるアニメを見たり、これまた社交性の塊とも言うべきバンドマンの人々がけいおんを機にアニメを見始めたりするということが多々ある。またアイドルマスターやラブライブなどのアイドルアニメのファンであるプロデューサーやラブライバーこそがオタクの代名詞であり、推しのいないオタクはオタクじゃないなんていう意見すら見かける。しかし果たして本当にそうなのか、私にはそうは思えなかったので、理由をつらつらと書いてみる。
昔はアイドル好きはオタク趣味じゃなかった?
アイドルアニメの話が先ほど出てきたので、まずアイドルについて語ってみるとする。今でこそアイドル好きまたはアイドルアニメ好きはオタク趣味と見做されているが、私が学生時代を過ごした昭和末期では、
趣味としてのアイドルはリア充趣味だった
という印象だった。特に中学生あたりでは誰もが推しであるアイドルを掲げ、そのアイドルがベストテンで上位にいるかいないか、ドラマに出てるか出てないかで他の推しの友達とマウンティング合戦やってるような感じだった。
それがおニャン子の台頭、解散、結婚、ザ・ベストテンの終了、バンドブームの到来を経て、元号が平成に変わった頃にはアイドルの活躍の場が歌番組からドラマへと移行していき、アイドルというより俳優が増えたという印象があった。そのため平成初期に従来のアイドルとして活躍していた人はグッと減りアイドル冬の時代に突入し、その代表格である高橋由美子さんは20世紀最後のアイドルとまで謳われたほどだった(実際にはSPEEDやモーニング娘。やSMAP・TOKIO・V6・嵐などが登場するわけだが)。
アイドルがオタク趣味と位置付けられたのはアイドル冬の時代の影響
もあるのかもしれない。
とはいえ先述のSPEED・モ娘・SMAP・TOKIO・V6・嵐の台頭によりアイドル界隈がまた盛り上がっていった感があるが、ここで2005年からAKB48やSKE48など48グループが台頭することになる。で、このAKBグループとなると、48人前後もいるから誰を推せばいいのかわからないとか、AKB劇場で握手会やってるけど地方在住者はそう滅多に握手会へ行けないとか、総選挙でのギスギス感が合わないとかいう具合に、嗜む人を選ぶ的なところがあった。
敷居の高さによりオタク趣味と見做された
感があった。とはいえAKBは次第にオリコン上位にランクインすることにより次第にメジャー化していき、リア充と呼ばれる人々が好きな芸能人の名前にAKBの名前を挙げるようになり、乃木坂46などの坂道グループもそれに倣うこととなる。
一方のアイドルアニメ。アイマスもラブライブも当初は知名度がそんなに高くなく、当初はオタク趣味と見做されてるところがあったかもしれない。
しかしアイドルマスターシリーズはアニメ化によりファン人口(というかプロデューサー人口)を増やしていき、ソシャゲで多岐化されたシリーズをさらに別のソシャゲ(デレステ、ミリシタ)で敷居を低くすることにより人口を増やしていった。その結果、アイドルマスターシンデレラガールズはドームツアーを開催するまでになり、アイドルマスターミリオンライブは8年越しのアニメ化を実現することとなった。
一方、ラブライブもアニメ化でファン人口(というかラブライバー人口)を増やし、全盛期のうちにバトンをラブライブサンシャインへ渡していきさらにニジガクへつなげることによりシリーズを存続させていった。その結果、東京ドームでライブを開催してチケット入手できない人まで続出するというお化けコンテンツとなった。
またライブといえばアイドルマスターシリーズもラブライブシリーズも、声優さんが自分の声を当てたアイドルの衣装を着て歌ったり踊ったりしており、ほとんど
3次元アイドルそのものと言っても過言ではない
活躍をしている。(もっとも最近の3次元アイドルはバラエティ番組で体を張った芸を披露しており、売り方が微妙に違ってきている感もあるが、アイマスやラブライブの売り方は80年代のアイドルとほぼ同等のような気がしている。)
このように、3次元のアイドルにしてもアニメ系アイドルにしても、人気が高くなることによりメジャーになっていったため、近年では
リア充趣味としてのアイドル趣味が戻ってきている
気がしてならない。
トレンディドラマの代わりとしての深夜アニメ
アイドルアニメについて触れたので、次はアニメについて話すこととする。昔はアニメ=子ども向け作品ということでアニメがオタク向けコンテンツとして認知されていた。
しかし、2000年に入ってから大人をターゲットとする深夜アニメが台頭し始めてきた。そしてアニメは2010年代あたりから子ども向けアニメと深夜アニメに二分化されることとなる。
子ども向けアニメとは地上波の夕方もしくは土日の朝に放送されるアニメのことを便宜上さすこととする。こちらは玩具や関連商品などスポンサーの収益により制作費を賄っていることが多い。プリキュアなどが典型例である。
深夜アニメとは関東U局またはBS局の深夜に放送されているアニメのことを便宜上さすこととする。こちらはポプテピピックなど一社提供体制を除いて複数の団体で結成された製作委員会により作られることが多く、DVDやBDなど円盤と呼ばれるメディアの売り上げ収入により制作費を賄っていることが多い。
2000年代まではコンプライアンスの都合上、エロやバイオレンス、難解な内容を含む作品などが多かった。しかし、2010年代になり「侵略!イカ娘」のようにエロやバイオレンス、難解な内容を含まず子どもでも楽しめるような内容のアニメも、過剰な自主規制を回避すべく深夜アニメとして放送されるようになった。
これにより深夜アニメの数が爆発的に増え、一時期は子ども向けアニメより作品数を超え、アニメといえば深夜アニメをさすことが多くなってくる。
一方、昭和末期から平成初期にかけてリア充の嗜みとされてきたトレンディドラマは、トレンディドラマの立役者的存在の一つだったフジテレビが2012年に韓流ドラマ放送への注力を起因とする不買デモにより勢いをなくし、それ以降トレンディドラマが失速、刑事ドラマが主体となってくる。そのため
トレンディドラマを見ていた若者の層が深夜アニメへ流れ込む
こととなる。こうして
深夜アニメがオタクコンテンツとして台頭
することになるが、中身を見てみれば
リア充がトレンディドラマの代わりに深夜アニメを見てるだけ
ともとれる。
ちなみに時期は2000年代初頭だがオフ会で当方がオフ参加者から「特撮ばかり見てないでアニメ見ろ」と説教を受けたことがあり、そのときに子ども向けアニメを見てると話しても納得してくれなかった。彼らとしては深夜番組「ワンダフル」枠で放映していたデ・ジ・キャラット深夜アニメをさしていたっぽい。
またアニソンセッションと呼ばれるイベントがあり、楽器のできるアマチュアミュージシャンが楽器を持ち寄ってアニメソングを演奏しているものがあるが、プリキュアセッションや特撮ソングセッションなどジャンルを固定しているものを除き、おおよそのノンジャンル系アニソンセッションでは深夜アニメの曲が演奏されることが多く、子ども向けアニメの曲では比較的大人の視聴者を対象としているプリキュアの曲ですら選ばれないことすらある。
さらに言うなら「あなたの選ぶアニメソングベスト10」系の番組で、地上波局が制作した番組だと宇宙戦艦ヤマトやタッチや銀河鉄道999が選ばれ、深夜アニメのファンから「なんでうちらの推し曲がないんだ」というコメントが殺到していた。一方BS局が制作した番組だと深夜アニメの曲ばかりが選ばれ、深夜アニメ知らない人からはどの曲も知らないというコメントが発せられる。
このように、深夜アニメというオタクコンテンツの皮を被ったリア充コンテンツが台頭するようになり、オタクの皮を被りオタクを自称するリア充、すなわち自称オタクが出現し始めるようになる。
しかし、この見解を回りに話したところ、
エロマンガ先生がトレンディドラマの代わりだとは思えない
という意見もいただいた。しかし昔にも毎度おさわがせしますとか時間ですよみたいなお色気ドラマはあった。それどころか、これらのドラマにて深夜はおろかゴールデンタイムに女性の裸が平気で流されていたので、
お色気があるからといってオタクコンテンツだとは思えない
部分がある。
自称オタクが関心を示さないオタクコンテンツたち
ではオタクコンテンツは絶滅したかと言われると決してそうではない。非映像系オタクコンテンツはもちろん存続しているし、映像系オタクコンテンツもいくつか存続している。ここでは映像系オタクコンテンツ3点を列挙してみる。
<特撮ヒーロー番組>
ウルトラマン、仮面ライダー、スーパー戦隊など、特撮ヒーロー番組のことをさす。平成初頭に連続殺人事件の犯人が特撮番組のビデオを所有していたことから特撮ファンが日陰者として過ごしていったことから特撮ヒーロー番組はオタクコンテンツと認知されるようになる。2000年代初頭のイケメン俳優ブームを機に大人の視聴者も増え始め、仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVERにて大人のライダーファンも市民権を得ているみたいな描写がなされている。しかし、特撮ファンや関連メディアの間には、あくまで
子ども向け番組のコンテンツを間借りさせてもらってる
という共通認識があり、玩具を大量に買って子どもたちから取り上げる転売厨みたいな一定割合の厄介を除いてコンテンツの扱いを大切にしている。
そのような事情がめんどくさいとか、特撮が低年齢向けだとか思われているためか、
ステータスを気にする自称オタクからは禁忌される
ことがある。オタク向け合宿イベントに参加したとき部屋でニチアサの特撮ものを見ていたが、同室の方々からは見向きもされなかった。まったく興味がないっぽい。また、トクサツガガガという作品では主人公の特撮趣味を否定する母親が登場しており、主人公の気持ちに共感する視聴者が続出していたことから、特撮という趣味がリア充向けではないことが言える。
<子ども向け番組>
先述の子ども向けアニメに加えて、おかあさんといっしょみたいな教育番組も含む。こちらも子ども向け番組のコンテンツを間借りさせてもらっているという共通認識がファンの間で共有されている。
特撮もこのカテゴリに入るかもだが、特撮については思い入れが強いので別項目にさせていただいた。
<ホラー作品>
グロテスクによる恐怖感を売りとした作品のことをさす。昔はゴールデンタイムでも平気でテレビ放送されており、見ない人は怖がりと馬鹿にされることもあった。しかし平成になってからは「犯罪の原因となってしまう」という根拠不明確なクレームにより次第にテレビから影を潜め、深夜にホラー映画の予告編が放送されるだけで話題騒然となるレベルとなってしまう。そのためホラーというジャンルをあまり見かけなくなったが、ホラー作品というジャンルはもちろん存続しており、ホラーオタクの方々もいる。
最近では界隈がコンパクトになった反面、ホラー漫画の作者さんが漫画の感想にいいねをつけてものすごく盛り上がるなど、アットホームな雰囲気になっている。作品そのものは怖いのだがw
また、昔オフ会の時にホラーオタクの方々に出会ったことがあるのだが、あのとき「お茶の子博士のHORROR THEATER」は怖い中にも美学があるということを熱く語られていた。リアルタイムで見た頃には相当怖かったので話を聞いた時には疑問符だったが、後で確認したところ本当に丁寧に作られていた。丁寧だからこそなおさら怖いということを説いていた彼らに格好良さを再確認した。
以上を鑑みるに、これらの
アットホームさや格好良さこそがオタクの本質
とすら思えてくるし、ホラー映画が犯罪の原因になるというクレームが事実無根のように思えてくるレベルであるが、これもおそらく
一定割合いるであろう厄介が犯罪を犯したら界隈の存続に関わる
ということを共通認識として置いているからかもしれない。一方、自称オタクたちがホラー作品に言及している例はあまり見たことがない。
以上、当方が知るオタクコンテンツの例を紹介したが、これらの例をまとめると、
オタクコンテンツとは対象年齢や社会的観念などの設定によりマイノリティを強いられたもの
であり、
オタクとはその少ない人口と共通認識の下でレアな共感を嗜む者
なんじゃないかと思っている。特撮にしろ子ども番組にしろホラー作品にしろ、人口が少ないからこそ自分の思いや感想が理解されたときのうれしさは非オタク趣味以上に大きいし、また別の意見や感想についても目から鱗的なものだとやはり人口が少ないからこそレアでありそのレアな意見により自分の知見が広がることもさらにレアだから非常にありがたいものがある。また人口が少ない理由という共通認識により、ただでさえ人口が少ないのにこれ以上減らしたくないという思いにより、それぞれが自律して動き界隈の平和が守られている感がある。界隈の平和は人口が少ないから一定割合いる厄介が無視できるほどの数であるからという話もあるのだが。
一方、深夜アニメやアイドルのほうはファン人口が多くなってきている。そのため感想を語ることがレアではなく世間話レベルになってきている感がある。また人口が多いので一定割合いる厄介も顕在化しており、自律しなくても虐げられることはまずないから自律して動く意識も不要である。リア充趣味の極北であるサッカーにてフーリガンがそこまで咎められない感がある状況に近づいてきている。
また、冒頭で語った「推しのいないオタクはオタクじゃない」という話については、推しのいないオタクがレアであるならそれはオタクであると思う。対象となるアイドルアニメがリア充趣味だったとしても、推しがいないという層が少なければそれは立派なオタクでありオタク趣味を嗜んでいると考える。また逆に対象となる特撮作品がオタク趣味だったとしても、大多数がもてはやされてる作品だけを追ってるだけの人はオタクとは思えずリア充趣味の延長なんじゃないかと考える。
自称じゃないオタクとして必要なものは何か
ではオタクとして必要なものは何かについて考える。
昔のオタクはそのジャンルにおける知識量
が指標となっていた感があった。他の人が知らないことを知っていることこそ、オタクとして徳が高いとされていた。一方、最近の自称オタクの間では、
円盤などグッズを買った金額
が指標となっており、より多く貢いだことこそオタクとして徳が高いとされているらしい。
しかし私はオタクに必要なものとしてこれらに対して懐疑的である。オタクも四半世紀やっていると、新しい世代がジャンルに入る光景をよく目にする。ここで
知識量を指標とすると、圧倒的に年配者が有利になる
ことになり、新しい世代がそのジャンルに入りづらくなってしまう。これは仮面ライダーシリーズのプロデューサーである白倉伸一郎氏も指摘なさっており、当方も全く同意見である。一方、
グッズ投資額を指標とすると、圧倒的に金持ちが有利になる
ことになり、ただでさえファン人口の少ない界隈は縮小の方向へ向かっていくことになる。そもそも金持ち自体がリア充の一種の到達点みたいなものであり、職能だけでなく教育環境や人間関係、コミュ力や上への忠誠心など、オタクとは無縁、むしろリア充に必要な要素がオタクに必要とされてくることになり、破綻をきたす。
ではオタクがオタクたるゆえんは何かということを考えていた矢先、声優ラジオを聞いていたときに目から鱗的なものがわかった。それは、
コンテンツへの熱量
である。声優ラジオとは「A&G Next Breaks 松田利冴のFive Stars」であり、パーソナリティーの松田利冴さんが自分の好きなものについて語るコーナーがある。この松田利冴さん、放送開始当初21歳の特撮ファンなのだが、仮面ライダーの放送年並べ替えクイズをなさったところ、正解率は芳しくなかった。しかし、
好きな特撮について熱く語ってるあたり、本当に好きなんだなあ
と感じずにはいられなかった。そりゃ21歳だったら昔の作品に関する知識はウルトラ第1世代や第2世代のオタクから比べれば少なくて当たり前、同等であれば天才級だと思う。しかし、ご自身の世代の特撮や現行特撮について楽しそうに熱く語るあたり、これぞオタクが自分の趣味を理解してほしいというレア体験をめざしているような気がして、
この熱量にはオタクを数十年やってきた私でもどう逆立ちしても勝てない
とすら思った。もちろん、年季や知識量や投資額も否定するわけではないし、これらを持っている方々には敬服しているところはあるが、
年季や知識量や投資額の根本にあるものは熱量
なんじゃないかと思っている。もちろんコンテンツは好きじゃないのに承認欲求を満たすために知識を増やしてマウンティングする者もいれば、投資さえしておけば後は野となれという者(ソシャゲのガチャで天井使ってカードGETして満足する者が典型例)や、惰性でオタク続けている人もいると思う。しかし、彼らからはオタクとしての匂いみたいなものが感じられず、リア充趣味の延長としか思えない。
限られた収入と時代の中で、
自分ができる範囲で捻出した投資や知識が熱量の証
であり、年季についても結婚と同じで
いろんな障壁で嫌いになってもそれでもまた好きになることも熱量の証
なんじゃないかと思う。当方の話だが、アバレンジャーと仮面ライダー555の頃、1万人ライダー招集企画の抽選に外れて、アバレンジャーもアイドル回で鬱回を見てすごく辛い時期だったので、さすがにこのときには特撮ファンをやめようと思ったが気づいたらいつの間にかすぐ好きな状態に戻り今に至る。閑話休題。
投資や知識や年季が人を選ぶのに対して、
熱量は人を選ばない民主的な指標
だと思っている。わかりづらい指標ではあるが、そもそも好きか嫌いか興味ないかを判定するのに、比較で使うような粒度の指標は不要だと考える。また、オタクの総本山的な位置づけとされているコミケの理念が、プロ・アマチュアを問わず
誰もが表現者となり、多様な作品が生まれ続ける文化
を同人文化=オタク文化として定義しており、コミケがオタク文化における民主性、多種多様性を尊重していることがわかる。ゆえに、オタクの指標も民主性や多種多様性を反映すべきであり、熱量は民主性や多種多様性という点でオタクの指標として最適なのではないかと考えている。
そのためオタクが自分の趣味でカーストを作る姿はどうも個人的には違和感が強い。そもそも
オタクはマイノリティ=カーストの下として虐げられてきた存在
だから、
下同士でカースト作って何が楽しいか
そして
下同士でカースト作りその上で胡坐をかいてるような奴はオタクじゃない
とすら思える。そもそもカーストなんて民主的じゃないしリア充的だし。
選ばれた人間はオタクじゃない
「オタクは現実逃避しすぎ」という声をよく見かける。現実逃避はある程度なら酒が潤滑油であるのと同じように必要だと思う。偏った思考範囲を広げるのに現実逃避は思考のリセット的な効力があるからである。
しかしそれとは別の現実逃避傾向がある。最近のオタク文化の傾向として、なろう系作品に感化されたのか、はたまたBRICs諸国の若者が努力して学力を伸ばしているという話を親からうんざり聞かされたためか、若い自称オタクの中には
自分は選ばれた優秀な人間であり、努力せずとも大成できる
という考えを持つ人を結構見かける。これは金銭的や人間関係的に恵まれた人々だけでなく、環境は悪いけどそれでも
弱者と思われたら負けだから自分を選ばれた人間だと思い込む
ようにしている人も見かける。さらには「コロナはただの風邪」信者に見られるように、
選ばれなかった人間は自分ですら淘汰されるべき
という危険思想に染まった者すらいる。自分の恵まれない環境を改善するため権力と向き合う(具体的には選挙権の一票で態度を示す)、なんて選択肢をとらず安楽死に走りたがる面々を見てるとそのような思想を感じ取ってしまう。
もちろん叶わぬ夢を見ること自体は悪いとは思わないし、カーストの下をストーカー扱いするような恋愛市場が相手なときには人間諦めが肝心なときもある。しかしやれることをやらずに才能任せにするなんて全然民主的ではなく、また、多種多様性を妨げるものである。
多種多様性を妨げる選民主義者はオタクにあらず
と考える。もちろん、精神系疾病などで自分との戦いで精一杯であり、やれることが全然やれない人も多々いると思う。しかし、
やれることはやれるときにやればいい
と思っている。生きてれば何やってもうまくいかない期間がいくつか出てくる。そうしたときにはとにかく悪あがきして、その期間を脱するまでしのぐことだけに注力するようにしている。そうすればいつのまにか闇の期間を抜け出していたことなんてことも同じぐらいあった。とにかく
いずれ来るであろう多種多様の表現をするときのために日々を生き抜く
ということを試してみてほしいと、選民主義を掲げる彼らには思っている。
おわりに:スキナモノハスキ
タイトルは「トクサツガガガ」ドラマ版の最終回タイトルから。
オタクとはマイノリティの塊みたいなものであり、共感されることがレアでありそんなレアな共感を尊ぶことがオタクとしての醍醐味だと思っている。もちろんオタク趣味に拘る必要も、オタクであることに拘る必要もないと思う。どんな趣味であれ「スキナモノハスキ」という精神のもとで熱量を高め、贅沢を言えば発信していくことこそオタクとしてのあるべき生き方なんじゃないかと思っている。
以上、長文お読みいただき、ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?