東映特撮に見る天才と秀才の定義
はじめに
本日(2020年10月23日)、超獣戦隊ライブマン最終回が東映特撮Youtube Channelで配信開始された。超獣戦隊ライブマンでは天才による地球支配を目論む頭脳武装軍ボルトに対して、彼らに身内を殺された若者たちが超獣戦隊ライブマンとなって立ち向かうという話だった。
この作品のテーマは「競争社会への警鐘」であり、キーワードとなるのは「天才」である。しかしこの作品において天才以上に有能な登場人物が数多く登場し、「天才」って本当に天才なのか?と疑問を抱くほどだった。
一方で、つんく♂さんがnoteにて天才に関する持論を執筆なさったこともあり、趣旨は違えど天才を語る絶好のタイミングではないかと考えた。
本記事では超獣戦隊ライブマンに登場する天才について振り返ると同時に、他の東映特撮に登場する天才についても振り返ってみた。
天才よりも有能だった秀才たち
頭脳武装軍ボルトには6人のドクターと称する天才が登場した。
月形剣史が変身する獣人型幹部・ドクターケンプ、
仙田ルイが変身するサイボーグ型幹部・ドクターマゼンダ、
尾村豪が変身する異生物型幹部・ドクターオブラー、
毒島嵐が変身する武人型幹部・ドクターアシュラ、
実はロボットだった宇宙人幹部・ドクターギルドス、
同じくロボットだった宇宙人幹部・ドクターブッチー。
この6人が首領・大教授ビアスの下で競いながら真の天才をめざし地球侵略作戦を遂行するというのが頭脳武装軍ボルトの行動指針である。真の天才かどうかの判断は大教授ビアスの採点によって決定される。
しかしこの採点、ボルトレビュアーズというどこぞのアニメのパクリみたいな企画で検証したところ実は出来レースであり、最初からケンプとマゼンダ以外は当て馬としか考えていなかったようである。したがって真の天才は、ケンプとマゼンダということになる。
とはいえケンプとマゼンダが真の天才として認められたのはライブマンを倒したかと見せかけて、実は死亡確認をしてなかったときである。さらに振り返ってみると、ケンプが一番顕著な活躍をしたのはギガゾメタル開発のときであり、それもビアス様から与えられた宿題をこなしただけである。
一方のマゼンダも昆虫の巨大化という副作用を起こすような新エネルギーを開発してはいるものの、ころもビアス様からの宿題による成果である。
このようにビアスもマゼンダも実はビアス様からの宿題をこなしていただけであり、独創性という観点ではそこまですごくないんじゃないかと思えてきた。
かたや、初期3人組の中では天才として認められず、秀才とみなされていたオブラー。彼の経歴を振り返ると・・・
・ケンプやマゼンダではなしえなかった全身改造を自分の体に施した
・タイムスリップを使用し恐竜を過去から連れてきた
・死者の亡霊を操る術を身に着けた
・ボルトバイブルを読ませて全人類を洗脳させようとした
と、むしろこっちのほうが天才なんじゃないかと思えるぐらい有能である。ただ彼は有能すぎて早期退場を余儀なくされた感がある。一番最後の洗脳作戦は、実はビアス様の最終目標としていた千点頭脳12個による全人類洗脳作戦と被っていた。オブラー自身は下剋上を全く考えていなかったとは思うが、彼が早々に失脚した理由はそこにあるんじゃないかと考えている。
さらに言えば、ライブマンの初期メンバー3人も落ちこぼれが大半とはいえ、科学アカデミアに入学できたほどの秀才である。
他人とは別の視点から物事を見ることで危機を打破した天宮勇介、
類稀なるコミュ力で敵はおろか機械や宇宙人とまで仲良くなった大原丈、
真摯さと人の思いへの歩み寄りにより敵を改心に持ち込んだ岬めぐみ。
彼らはライブロボの設計・製造もできたということもあり、相当優秀である。彼らもオブラー同様にケンプやマゼンダよりも有能ではないかと思う。
したがって、天才と秀才の定義とはこうではないかと考える。
天才:自分の才能をもとに、トップの命令を遂行できる人
秀才:自分の熱量を原動力として、努力により目的を達成できる人
他の東映特撮における天才と秀才たち
ライブマン以外の作品における天才と秀才について考察してみる。まずはダイナマンとバイオマンから取り上げてみることとする。
科学戦隊ダイナマンでは終盤にダークナイトと呼ばれる超有能なライバルキャラが登場する。ダークナイトの有能っぷりは以下である:
・帝王アトンから帝王剣を奪う
・南郷が少女にこっそり花を渡す事情を知っている
・島が星川に憧れて流星キックを習得しようとすることを察知する
・カー将軍の作ったコンピュータードラゴンをハッキングする
このほかにもいろいろ有能エピソードはあるがネタバレにもなるので割愛するとして。彼はこれだけで有能でありながら、正体がバレたときにはこの有能さは天性のものではなく努力によって得られたものだと主張していた。
で、翌年に登場した超電子バイオマンではドクターマンと呼ばれる天才が登場する。彼は脳細胞を成長させる機械を作り自分に脳改造を施すことにより天才となる。しかし彼が天才と思えるエピソードはバイオキラーガン開発とビッグスリーによる下剋上を覆したときぐらいだと個人的には思っている。鳴り物入りだった細菌作戦も捨て身とはいえ桂木ひかるの嗜み程度の植物知識に覆された。シルバが登場してからはバルジオンの捕獲にばかり目が行き、最終決戦ではバルジオンの技術を流用してキングメガスを製造した。地球を破壊する爆弾という技術力の高い兵器を開発してはいるものの、悪の組織の科学者としては定番の技術である。
そのため、努力による有能っぷりを発揮したダークナイトと比べると、ドクターマンはレールにハマった道を走っていただけのような気がした。
さらに時は過ぎ、仮面ライダーエグゼイドに登場する壇黎斗。当初は自身を天才だと思っていた節があったが、バグスターである新壇黎斗として復活したときには社長や人間など肩書がなかったためか、ハイパームテキガシャットなどの超テクノロジーを楽しそうに開発している姿が印象的だった。この楽しいという熱量が超テクノロジーを生み出していたかもしれない。
かたや翌年の仮面ライダービルドである天才物理学者・桐生戦兎。彼はフルボトルやライダーシステムなどを開発していたが、実は父親である葛城忍の技術をトレースしただけである。またエボルトに使った最後の切り札である世界融合も、完全なオリジナルではなく別目的とは言え最上魁星が平ジェネFINALで使った方法である。したがって戦兎は父親や魁星の技術をトレースすることには長けているが、独創性という点ではそこまで顕著ではないことがわかる。
このようにダイナマン→バイオマンにしてもエグゼイド→ビルドにしても、前後の作品で有能な秀才と天才が並んだことにより、秀才と天才の差がよくわかる。
なお、他作品の秀才と天才も紹介しておくと。ゴーカイジャーのハカセは度重なる失敗にもめげず、あきらめない心と親友・鎧の助力によりゴーカイガレオンバスターという2年後の春映画でも使えるような汎用的な必殺武器を開発し、リーダーであるマーベラスから「秀才」と呼ばれたことがある。ハカセ自身は天才と呼んでほしかったそうだが、東映特撮での「秀才」は有能であることを示すため、実はマーベラス的に最上級の誉め言葉だったんじゃないかと思える。
一方、自身を天才とは言ってないがハリケンジャーのサーガインは「偉大なる発明は模倣から始まる」と、技術を模倣していることについて割り切っている。
終わりに
バトルフィーバーJから数えてスーパー戦隊10周年にあたるライブマンは、ゴーカイジャーみたいなお祭り作品ではなくあくまで競争主義への警鐘というテーマを貫いた作品だった。競争主義への象徴である天才になるよりも、努力して秀才になることで有能になることの大切さを説いた作品でもあったのかと、今振り返れば思う。
以上、長文お読みいただき、ありがとうございました。
余談
ちなみに私は今でこそ毎週ライブマンの感想を書いたりボルトレビュアーズとかいう企画やったりしてライブマンを楽しんでいるが、放送当時はバブル期ということもあってかお祭り作品を期待したのに実はシリアスな作品だったこともあって、あまりハマれなかった。戦隊の男性陣もどちらかというと物事を斜めから見てたりコミュ力高かったりして、当時の私としては共感を持てなかった。
しかし、今振り返ってみると当時の自分は頑張って進学校に入学したのに高校デビューもできず部活も続かず成績も悪かったという、落ちこぼれと言っても勇介や丈より尾村豪の立ち位置に近かったのではないかと思える。そして人生で栄光(?)と挫折を味わうことで、競争主義への警鐘というテーマをより深く認識でき、ライブマンという作品を楽しむことができたように思える。
とにかくライブマンが最後まで配信できて本当にうれしく思う。この調子で残る未配信作品であるターボレンジャーとファイブマンについても配信してほしいと強く願う。