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#13 神社すげぇ

たまには短めのタイトルをつけてみようと思ったが、異様にバカっぽくなってしまった。一方で中身は結構真面目な内容となっており、社会インフラの維持に対して信仰って合理的だなぁ、と感じたという話である。
スピリチュアルな要素はほぼないが、むしろ宗教に真剣に向き合っている方が読むと顔をしかめてしまいそうな内容も含んでいるのでご容赦いただきたい。


氷川神社で厄祓い

三が日、妻が厄年なのでお祓いしてもらうため、大宮の氷川神社に行ってきた。かつて大宮や高崎に住んでいる時期が合計3年くらいあったので、新年を迎えるたびに来ていた思い出深い場所である。
武蔵一宮氷川神社は例年三が日で約200万人前後の来場者数を誇り、日本の神社では毎年来場者数トップ10の常連らしい。我々はよく1月2日の朝に初詣に出掛けることが多いので、お祓いの申し込み用紙を記入して列に並んでからお祓いを受けるまではずっとスマホで箱根駅伝の中継を観ている。体感で言えば、だいたい箱根駅伝1.5〜2区間分くらい経過しているだろうか。(今回はちょっと列が長めで、確か2区の中盤から見始めてお祓いが終わった時はすでに4区の終盤くらいだった気がする)

そしてお祓いが終わったら参道から外れた左手側通路を逆走する形になるが、その時には参道はもう身動きが取れないレベルの人出になっていてゾッとする。
9時台は人は多いけど普通に流れてる、でも11〜12時台の参道はとにかくヤバい。それほど広くもない参道に縁日の屋台と人で身動きが取れないくらいにギッシリ。そのくらい人が多い。

写真左手の参道でない部分も出店があって人が多いが通れないほどではない。写真右手の人口密度と、"明らかに足が止まっている"様を見比べて欲しい。

What is your religion?

カトリックやイスラム教徒(ムスリム)ではない、よくいる日本人は、礼拝もラマダンもないのでそういう”敬虔な宗教者”と自分を無自覚に比較してしまい『自分を無宗教だ』と捉え損ねてしまうことがある。しかし、神社仏閣の数や人が亡くなった時の葬儀の方式を考えれば、正確には"神道と仏教を緩めに信じている"が正しいだろう。(宗教はあまり詳しくなかったが、以下の書籍の「日本人の宗教」に関する章の内容がわかりやすかった)

こうして神社にたくさんの人が来て賽銭を投げ、厄年というストーリーを信じてお祓いをしているのが何よりの証拠、その行動が現在の日本では誰もが認めるスタンダードな正月の過ごし方なのだから、日本は神道の国といって差し支えないだろう。ほぼ同じ感覚で葬儀とお墓の様式から仏教の国というというのも納得できると思う。

ちなみに"緩めに"とあえて書いたのは、"厳格な(もしくは敬虔な)"と対比させたい意図がある。ムスリムの例が有名でわかりやすいと思うが、経典クルアーンに則り"豚肉とアルコールは絶対摂取しない"と頑なに拒むような、宗教的に"厳格な"人もいれば、そこを"緩めに"解釈して普通に食べてしまう人もいる。(特に日本に暮らしている留学生の方などと接しているとこの違い・グラデーションが感じやすいのかもしれない。また、付け加えると、どちらが良い悪いはないと思う。)

そしてこれを日本人に当てはまると、初詣や仏教式葬儀の習慣が無意識レベルで根付いているものの、特定の宗教的教えや慣習を意識して生活する機会はほとんどなく、何なら海外の人に訊かれて『私は無宗教』と答えてしまうくらいの感覚は、まさに"緩めな信仰"を体現していると思う。

神社が無意識レベルで好き

私は神社という場所が好きだ。
"来るとなんとなく清らかな気持ちになるから"という浅はかで愚かな理由だ。賽銭入れてお辞儀をして手をパンパン鳴らすだけでなんとなく気持ちいい。こだわりもほぼない。別にそこがどのような神様が祀られる神社か、など大して気にもしてない。
平日も自宅からのテレワークが多いので、最寄りの神社には散歩ついでに寄り、5円か10円かそこらの賽銭を投げて無病息災やら家内安全やら必勝祈願やらを祈り、満足して帰る。なんてお手軽で万人に開かれたエンタメ施設だろうか。(ラウンドワンやカラオケまねきねこよりよほど万人受けする上に、コストはディズニーランドやUSJの何千、何万分の一で楽しめるのだ)

もちろんポジティブなイメージの中に家族で初詣をした幼い頃の記憶の補正などもあるだろう。それも含めて境内を潜った瞬間になんとなく襟を正してしまうこの場所が無意識レベルで好きだ。知的好奇心旺盛な人にはもしかしたら馬鹿にされてしまうかもしれないが、何せこの寒い時期に三日間で200万人を超える人出だ。先ほどの長蛇の列の中にそんな感覚の人、結構いるんじゃないかと思っている。

"厄年"って合理的なシステム

さて、前述の通り、我々夫婦は厄祓いをしてもらいに氷川神社に来た。

申し込み手続きとして個人情報を記入したほか『厄祓い』『家内安全』『交通安全』…といった費目にチェックを入れ、次に『五千円』『一万円』『二万円』…といった納付額にチェックを入れてシートの記入を完了。
箱根駅伝を観ながら1時間近く長蛇の列に並んで納付額を払って受け付けし、社務所で待って20〜30分すると番号を呼ばれて100人以上が一同に集められ、皆沈黙し項垂れながらご祈祷とやらを受け、いい声で一度だけ名前を呼ばれる。(ちょっとうれしい)
ご祈祷が終わると、最後に約1年間有効と言われるお札というラッキーアイテムをもらって終了だ。(加えて、ラッキーアイテムに有効期限があり、期限切れアイテムは特定の場所にしか捨てられないから、また来年も来る…というリピーター確保のおまけつき)

改めて文章にしてみて…
これが神道じゃなくて”XX教”とかいう謎の新興宗教で、仮にラッキーアイテムが神社のお札とかお守りじゃなくて”XX教のパワーストーン"とかだったらどんだけ怪しいんだろうと訝ってしまわないだろうか…

そもそも”厄”ってなんだろうか?
厄年にお祓いをしなかったから悪いことが起こるなどという統計データがあるのだろうか?
逆にお札やお守りをつけていていいことが起こるなどという統計データがあるのだろうか?
また、※たとえば老いた両親が新興宗教”XX教”の類似したイベントを信じ込んでお金を払っていたら、多くの人が止めるのではないだろうか。(※補足すると、1995年にオウム真理教の地下鉄サリン事件があってから日本人は新興宗教への忌避感が特に強いらしい)

しかし、実はそのくらいの思考実験がむしろ肝だと思う。
お祓いをしなかった時のデータもお札やお守りをつけていた時のデータも、間違いなく存在しないだろう。そして”お札やお守りなんてただの木や紙だ”と信じることはそんなに難しくないどころか、むしろ”緩めに神道と仏教を信仰している”ようなほとんどの日本人が薄々そのことはわかっている。だけど我々のほとんどはただの木や紙をゴミに捨てたり燃やしたりするようには、決してお札やお守りを粗末に扱えない。その理由を言語化できる人は少ないが、その忌避感は多くの人に共通している。
”人間にはある年齢で厄年があって、そのタイミングで神社にお金を払ってお祓いをした方が良い”というストーリーを当然のように信じる。
こんなにビジネスにもスポーツにも生活にもデータサイエンスが普及した時代に、このストーリーは疑わない。もう少し正確に言えば、新興宗教と違って”疑うか疑わないか”という次元に入ってすらいない。このレベルで集合的無意識の価値観が形成されるのは果たしてどれだけの時間・コストが必要なのだろうか。

加えて、厄年は男性で3回、女性で4回と人生で数回しか来ないのだ。この取り過ぎないバランス感覚よ。(もちろん前厄・後厄はあるが)
「毎年この神社に寄進しないとあなたは呪われます」といったような胡散臭さ、アコギさはほとんど感じさせない上に、同じ人に毎年払わせるわけでもなく、ある程度毎年一定の収益が見込める仕組み。

仮にだが、これを税金みたいにもっと義務的に無理矢理徴収したり、神社の経営者がその利益で私服を肥やしてやりたい放題やっていたり、もっと腐敗してたらルター(※下記)みたいな奴が出てきたかもしれない。
幸い、私の知る限りそこまで腐敗した神社はない(…はずと信じたい)

ここまで価値観が内在化されたもので、何割かの市民から納得感を持って1万円ずつくらい募金を募るシステムとして、なんて素晴らしいのだろうか。

インフラの維持にはお金が必要

こういう観点になる理由も補足すれば、基本的には"神社が好きなのでずっと維持して欲しい"という想いがある。
少し前であるが、以下のような記事もあった。次項でインフラ老朽化にともなう維持管理の課題を事例に出すが、歴史ある施設の筆頭である神社の維持管理にお金が必要なのはとても理解できる。
以降は、社会インフラおよび社会システムを事例に"重要なものでも維持管理のお金を集めるのは難しい"というものを挙げて対比してみて、神社の凄さについて論じていきたい。

(※当初リンクしていたページが記事公開後に閉鎖されていたため1/10 17:00時点で別サイトに差し替えた。)

社会インフラ(ハードウェア設備等)の場合

一応、仕事では公共工事で取り扱うような社会インフラ周辺のことをやっているので、昨今の道路や水道管や橋梁の老朽化にともなう事故には敏感になっている。どんな構造物でも永遠に壊れないということはあり得ない。
1964年の前東京オリンピックから高度経済成長期にかけて急速に整備された日本のインフラ設備は50~60年が経過したため、修繕コストを適切にかけなければ壊れてしまう。

もちろん生活者の感覚からすれば、これまで生きてきた時間の中ではかからなかったコストなので、”いつまでも永続的に使える”という感覚になって、そうした投資の重要性に鈍感になってしまうのは理解できる。しかし、橋梁の崩落のように人身事故になり兼ねないセンセーショナルな事故が起きてくると、そろそろ意識を変えねばいけないと感じる。(インフラはとかく”動いて・使えて当たり前、何か事故が起きたら大惨事で責任者を糾弾”という維持管理者にとって辛すぎる社会一般的な認識がある。だからこそ”インフラ”なのだが)

神社を維持管理するためのコストがもしお祓いやお守りの収益でなく"維持修繕費用に関する寄付金のお願い"だったら市政に生きる人々がここまで快く数万円を払うことはないと思う。
その観点でも自然な互助関係が構築できる"厄年"と"お祓い"というシステムはすごい。

社会システム(人・仕組み・制度等)の場合

道を歩いていて突然暴力を振るわれたら、現代の一般常識として警察に通報するのが当然だろう。

(リスナーでないとわからない表現とは思いつつ書いてみるが)私はコテンラジオを愛聴しているので、警察や医療が整備された現代からは想像もつかない”暴力が跋扈している社会””万人の闘争状態にある社会”を想起することがある。

少なくとも私は、警察組織が存在せず、暴力を誰も取り締まらないような社会で生きていたいとは思わない。力の弱い人間が力の強い人間に媚びるか奪われ続けないといけない社会なんて真っ平ごめんだ。腕力の強い人間か狡猾な人間が優位に立つような苛烈な世界は、仮に自分が良くても自分の子供や家族が傷つけられる可能性をはらんでいる。

インフラの老朽化とは少し毛色が異なるが、今こうして当たり前に運用されてきた互助的な社会システムが信頼を失いつつあるように感じている。昨今、警察や教員などの不祥事(特に立場を利用した性的暴行事件など極めて悪質なもの)はあとを絶たない。そして、それらが"税金"で維持されているシステムであり、毎日のように"増税"に関するニュースが流れ、非常に感覚的ではあるが世間に"税金に対する憎悪"が醸成されているように私は感じている。(恐らくそういう思考回路によって、昔も今も、役所の窓口で「税金泥棒」などと公務員の方に罵声を浴びせる愚か者がいるのだろう)

"夜警国家"という言葉に代表されるように治安維持機能は国家が維持する最低限の機能の一つと言われているので、"暴力が跋扈する世界"まで想起するのは荒唐無稽かもしれない。
それでも身体を張って人々を守ってくれたり、未来の社会を担う子供を育てたり、どんな時間帯でも死にそうな人を助けてくれるような、真に大変で、命懸けで、安穏と生きている我々が足を向けて寝られないような職業にコストをかけなければ、成り手の不足や質の悪化※は免れないだろう。
(※"質の悪化"という言葉を人に当てるのは大変不適切だが、"職業の人気低下により、能力不足ないし汚職や権限の悪用をするような人物が現れてくるという意味"の端的でわかりやすい表現が思いつかず、表現力不足により使用していることを注記しておきたい)

コロナ禍で人間が生きて社会活動を行うのに本当に必要なのはどんな職業の人なのか、炙り出されたはずだ。増税を肯定しようなんて全く思わないが、少なくともそういう仕事をしてくれている人に報いる仕組みにしなくては社会はおかしくなっていくと思う。

だからこそ増税云々ではなく"税金"のイメージを悪くするのをやめてほしいと心から思っている。たとえば税金の無駄遣いと言われるような事業やありえないレベルの中抜きなどだ。警察や学校など公的機関の立場を利用した不正行為・犯罪行為も本当にやめてほしい。
政治家だって警察官だって教師だって、大半の人は真面目にやっているんだ。たった数人の愚か者によって、真面目にやるのが馬鹿らしくなるような国になってしまったら終わりだ。

突然恥ずかしいくらいの勢いで怪しい政治的主張を書いてしまったが、最近よくこういうことを考えている。きっと見る人が見れば反論の余地ばかりの浅はかな主張だろう。
しかし、自分の中ではこのあたりの感覚が、神社の凄さに対する驚きの感覚と切っても切り離せないため、述べておきたかった。詳細は後述する。

社会のいろいろなものがクラウドファンディングに見える

前章でインフラ維持の観点を出したが、そのもう一つ手前の前提として、現代社会で寄付金を募る方法として定着した”クラウドファンディング”の発想がベースにある。お賽銭やお祓いは、”好きなもののためにお金を払って応援する”活動であり、或いはクラファンの返礼品とも捉えられるかもしれない。
こんな風に、最近は社会のいろいろなものが”クラウドファンディング”みたいだなぁ…と思うことが多い。

”税金”もクラウドファンディングみたいだなぁ…と思っている。先述の"暴力が跋扈する世界"で、みんなで少しずつ出資して、国家の治安を守る警備部隊や、人が死んでしまいそうな状況で助けに向かうレスキュー部隊などが作れるのであれば、私はそのクラウドファンディングに出資するだろう。

また、日本では、自然科学系のノーベル賞受賞者が出た際に、基礎研究についての投資不足を論じられることが多いが、税金の使い方には"民意を重視し過ぎると目先の実利に寄りすぎる"という課題がある。(なので"何でも人気投票・クラファンにすればいいじゃん"とは思わない。)
そのために有識者の力も借りながら、将来的な利益やビジョンを議論して配分を決めるのが政治家の役割ではないだろうか。税金が日本国全体に対するクラウドファンディングだとしたら、運用者(政治家)が傍若無人な振る舞いをしては当然信頼関係は成り立たないし、そこに社会維持のためにエッセンシャルな機能(先述の社会インフラ・社会システムに類するもの)がぶら下がってしまっているのも構造的な課題なのかもしれない。

神社にお祓いを依頼をするのと同じくらい税金を快く払わせてくれ

神社や信仰の話から、急に社会インフラや社会システムにまで話が及んでしまったが、当初は”自分だけでなくみんなも神社のことが好きで良かった、このおかげで神社がずっと維持される”という、ただそれだけの話だったのだ。
しかし、背景にある考えを言葉にしてみたらこんな文章になってしまった。明らかにコテンラジオを4年聴き続けた影響だろう。意外と学びの成果みたいなものが見えてきたので、書きながらどこに行くかわからないヘンテコな文章だったが書いてみて良かったと思っている。

このくらい当たり前に"みんなの大切な神社"足り得るには途方もない歴史と道のりを経ているのだろう。神道という無意識レベルで納得しているストーリーを通して、お祓いやお守りや初詣といった形でこのストーリーを守る側の動きを自然に受け入れられているのはある種素晴らしい仕組みだと感じた。

”一方で社会インフラおよび社会システム(道路やら警察やら…)は維持が難しいフェーズになっている”という話を対比するように書き始めた。自分の中でこの2つの事象が”切っても切り離せない”理由を、書き始めた時はよくわからなかったが”神社にお祓いを依頼をするのと同じくらい税金を快く払わせてくれ”という主張が無意識にあったことを書きながら気付くことができた。
”取り過ぎないバランス感覚”も不思議なもので、”税金”のように”自分の意思と関係なく自動的に取られるコスト”に対してはどうしても懐疑的になってしまう感覚は確かに自分にもある。ここに"信頼関係"の要素もあるように思う。

しかし、神社には申し訳ないが、命の危機が迫っている時に本当にありがたいのは神頼みではなく、やはり目の前で自分のために命懸けで身体を張ってくれている人なのだ。本来そういう人にせめて金銭面だけでも寄与するための”税金”なのに、そのストーリーがあまりにも当たり前過ぎて意識されにくいことが自分の中で最も釈然としないポイントだったようだ。

だからこそ日本人に無意識レベルで内在化している神道のストーリーおよび神社へ快くお金を落としていく人々の態度と昨今の日本に渦巻く"税金への憎悪"を対比してしまい、自分の中ではこの2つの事象を”切っても切り離せない”理由だった。
決して"税金を快く払え"と言いたいのではなく"正しく使われて、信頼関係を取り戻してほしい"というのが最終的な主張だ。
(どうでもいいが、投資や成り手不足解消の観点も含めてストーリーが重要なのであれば、”踊る大捜査線”のような刑事が主役の人気ドラマ等はある意味めちゃくちゃ重要なインフラの一つなのかもしれない。)

途中、お祓いという神道の宗教的儀式を懐疑するかのような部分も書いてしまったが、むしろこの規模の人間の中で無意識レベルの合意形成(合意形成だとすら思っていない)が為されていることに価値を感じている。今回これ以上は書かないが、治安の良さや人々の統制にも確実に寄与している。社会インフラ・社会システムと神社の実利や存在意義を比べる意図など毛頭ないことはここで改めて釈明しておきたい。何せ私は神社が大好きなのだ。少なくとも、この文章を読んで無神論者になることだけは絶対にやめて欲しい。

さて、この記事を締め括る。
まとめを書いてみて思ったが、社会科の勉強が足りな過ぎて自分には"人々との信頼関係を取り戻せるような、より正しい税金の使い方"が結局わかない。この記事をきっかけにきちんと学び直さなければならないと痛感した。

そして最後に神社の話に戻るが、
氷川神社はもちろん、毎日のように足を運んでいる最寄りの神社がなくなってしまったらと想像するととても悲しい。そこは家族に0歳の頃から連れて行ってもらった場所なので、私の祖父母、両親もきっと悲しむ。それを考えたら我々夫妻の年に1万円の支出なんて本当に安いもんだ。
日本には大切な家族の記憶を育んだ名も知れない神社が数多あるだろう。
お祓いでもお守りでもおみくじでもアニメのキャラクターとのコラボレーションでも何でもいいから、取れるところから取って生き残って欲しい。

バカなタイトルから始まったのに意外と壮大な話になってしまった。神の力かもしれない。(終)



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